当サイトでは、ロシア連邦・プーチン大統領の パーソナリティ(性格)を心理学的に分析しています。
目的としては、次の三つの疑問について考察するためです。
疑問①:プーチンは、2014年にクリミア半島を併合した後、なぜ2022年にウクライナへの軍事侵攻をしたのか?
疑問②:ロシア国民の多くは、なぜプーチンを支持するのか?
疑問③:プーチンは、核兵器を使用するのか?


当サイトの考察結果を要約します。
①プーチンがクリミア半島を併合した後、さらにウクライナへ侵攻をしたのは、両方とも、大きく下がったロシア国民のプーチン支持率を高水準まで引き上げて、プーチンが大統領職を続けるためであったと考えられます。
その訳は、プーチンには数え切れないほどの重大な犯罪疑惑があるからです。
プーチンは、万一、失脚した場合にはロシア国民からかなり厳しく責任を問われ、生命・財産は危機的になる可能性がきわめて高いのです。

ロシアでプーチン支持率が高いのは、主に高齢者と地方在住者です。
彼らがプーチンを支持する根本的な原因には、歴史的な背景があります。
ソ連時代からロシアでは既に上層部から一般市民まで腐敗が蔓延し、スターリンに代表されるような「強い指導者」が、反民主主義的に国家の統制をとって国の威信を維持する情況が約70年間つづきました。ソ連が崩壊して反民主主義的な国家の統制が緩んだ1990年代のロシアでは、殺人などの凶悪犯罪が横行し、経済は奈落の底へ落ち、ロシアの威信も失墜しました。
したがって、ロシア国民の多くは、何よりも「強い指導者」の存在こそが重要だ、という《間違った不安と信念》を抱えることになりました。これが、プーチンを支持してしまう根本的な原因です。
プーチンは、これを悪用しました。プーチンは、ロシア国民を洗脳・管理することで、「プーチン」という名の「強い指導者」がロシアを守るというイメージを固定化し、ロシア国民が民主主義を強く求めないように信じ込ませました。プーチンは、マスコミ戦略、愛国心の鼓吹、治安機関による抑圧、自由と民主主義の押さえこみ、チェチェン紛争の悪用、対外戦争の惹起など、旧ソ連のKGB顔負けの、ありとあらゆる策略を駆使しているのです。

プーチンは、ロシア国民のためではなく、自分の協力者たちのためでもなく、自分の家族のためでもなく、まさに自分自身の権力を維持するために、核兵器使用が絶対確実に役立つことが明らかであれば、核兵器を使う可能性があると考えられます。プーチンは、自分以外の多数の人びとを犠牲にしても一切良心の呵責を感じることはありません。未だに核兵器を使用しないのは絶対確実に自分の利益になる使用方法を見つけられないからです。冷淡に核兵器を使用できる原因は、プーチンがサイコパスであり、不良少年時代に培った危険な信念も併せ持つ、きわめて冷酷かつ非情なパーソナリティの持ち主だからです。

※管理人注:当サイトは、2024年3月20日から公開を始めました。
※管理人注:当サイトでは、参考文献から引用するにあたり、漢数字の一部を、読みやすいように、アラビア数字へ変えています。

第Ⅰ部 プーチンという人間

第1章 国際的な逮捕状

1-1 プーチン容疑者

※引用元:「NHK」のWebサイト

引用文:「1952年10月7日生まれ、ロシア連邦大統領。国民(子ども)の不法国外追放およびウクライナ占領地域からロシア連邦への人口(子ども)の不法移送という戦争犯罪に責任があるとされる[ローマ規定の第8条(2)(a)(vii)および第8条(2)(b)(viii)に基づく]。これらの犯罪は、少なくとも2022年2月24日以降、ウクライナ占領地域で行われたとされる。」

※引用元:「International Criminal Court」のWebサイト 

1-2 連れ去られた子供たちの人数

※引用元:「CHILDREN OF WAR」のWebサイト

引用文:「ウクライナ政府は「CHILDREN OF WAR」というサイトを立ち上げて、ロシア側に「連れ去られた」とされる子どもたちなどの数を公表しています。それによると、2023年3月19日の時点で、ロシアに「連れ去られた」とされる子どもたちの数は1万6226人」でした。

※引用元:「NHK」のWebサイト
※管理人注:引用文中の太字は管理人によるものです。

1-3 ロシアの反応

引用文:「ウクライナ情勢をめぐってICC=国際刑事裁判所がロシアのプーチン大統領に戦争犯罪の疑いで逮捕状を出したことについて、ロシアの連邦捜査委員会は「違法な手続きだ」として、ICCのカーン主任検察官や赤根智子裁判官などに対して刑事手続きを開始したと発表しました。
ロシアとして対抗措置を講じたものとみられます。」  

※引用元:「NHK」のWebサイト
※管理人注:引用文中の太字は管理人によるものです。

第2章 サイコパス 

プーチン大統領の尋常でない冷酷さは、世界中のジャーナリストたちやロシア研究者たちによってくりかえし指摘されています。ウクライナの子供たちの連れ去りは、氷山の一角でしかありません。

次の2つの引用は、ジャーナリストであるジョン・スウィーニー氏の著書『クレムリンの殺人者』からです。

※引用元:『クレムリンの殺人者』ジョン・スウィーニー著  土屋 京子訳  (朝日新聞出版)引用文A:244-246ページ、引用文B:403-404ページ 

引用文A:「ジェイムズ・’ジム’・ファロンは神経科学者で、殺人者やサイコパスや独裁者を研究している。ファロンはカリフォルニア州立大学の精神医学教授で、プーチンの精神と肉体と魂について研究してきた人物だ。私はファロン教授のインタビューをポッドキャスト「Taking On Putin(プーチンを糾弾する)」のために動画で収録した。教授とは馬が合ったので、ジムと呼ぶことにする。(中略)私はジムにマレーシア旅客機撃墜事件についてプーチンに直撃取材したとき、プーチンがいかにするりと嘘を言ってのけたかを話した。
「ええ、その動画は見ましたよ。まさにサイコパスの典型的な反応です。(中略)あなたがプーチンを問い詰めた場面でプーチンがそれは基本的にはむこうの責任だとペラペラ答えたのを聞くと、まぎれもなくサイコパスの特徴だと断言できます」」

※管理人注:引用文中の太字は管理人によるものです。

 
※引用元:「THE  TRIBUNE」のWebサイト 
※管理人注:ジョン・スウィーニー氏によるプーチン大統領への直撃取材画像。右端の眼鏡をかけた男性がジョン・スウィーニー氏です。
※管理人注:「マレーシア旅客機撃墜事件」とは、2014年7月にマレーシア航空旅客機がウクライナ東部を飛行中に撃墜され、乗客乗員298人が死亡した事件を指します。オランダの裁判所は2022年11月、殺人罪でロシア人2名とウクライナ人1名に終身刑の判決を出しました。 

 

※引用元:「NHK」のWebサイト 

『クレムリンの殺人者』の中で著者ジョン・スウィーニー氏は、「世界でも指折りの精神医学者」である「セミョーン・グルーズマン」氏にも、意見を求めました。

引用文B:「私は改めてセミョーンに尋ねた。プーチンは正気だと思いますか? 「ああ、正気だと思う。サイコパスだが、正気だ」」

※管理人注:引用文中の太字は管理人によるものです。

2-2 サイコパスとは

※引用元:『サイコパス -冷淡な悩-』ジェームズ・ブレア、デレク・ミッチェル、カリナ・ブレア著 福井 裕輝訳 ( 星和書店)引用文:56ページ

引用文:「反社会的な親、アルコール依存、一貫性のないしつけ、監督不行き届きが、サイコパスが示す情動面の障害を引き起こす理由にはまったくならない

※引用元:『診断名サイコパス』ロバート・D・ヘア著  小林 宏明訳  早川書房 引用文:29-30ページ

引用文: 「あたたかく慈しみにあふれた家庭に育ち、兄弟は他人を深く思いやる心をもったノーマルで誠実な人間なのに、本人がサイコパスである場合もある。

※引用元:『サイコパスの真実』原田 隆之著 (ちくま新書) 引用文:137ページ

引用文: 「研究が増加し、エビデンスが蓄積されるにつれ、われわれが否が応でも向き合わなければならない事実がある。それは、サイコパスは端的に言うと、脳の機能障害であるという事実である。さらに、遺伝による支配の大きさについても直視する必要がある。」

2-3 サイコパスについての誤解 

サイコパスについて詳しく解説する前に、映画『羊たちの沈黙』や映画『ハンニバル』などに登場する特殊なサイコパスをみた後で抱きがちないろいろな誤解を、まずはしっかりと解くことからはじめます。
たとえば、次のようなイメージはサイコパスに対する強い偏見に満ちています。

このような偏見の原因として、次の誤解が挙げられます。 

※引用元:『サイコパスに学ぶ成功法則』ケヴィン・ダットン、アンディ・マクナブ著 木下 栄子 訳 (竹書)引用文:219ページ

引用文:「サイコパスは何か報酬があれば、くだらないことに惑わされずにやるべきことをやり遂げるのに長けている。」「たいていの場合、サイコパスといえばすぐにナイフを振り回す精神異常者で、馬に振り落とされたらその馬をすぐさま殺すようなヤツだと思われている。目的を達成するために不屈の精神を持ち、すぐさま砂を払って再び馬の鞍にまたがるような現実主義者だとは思われていないのだ。実際は、後者が真実である。(中略)サイコパスは、耐え忍ぶ能力も高い。」

※引用元:『サイコパス 秘められた能力』ケヴィン・ダットン著  小林 由香里訳  (NHK出版)引用文A:161ページ 引用文B:167-168ページ、引用文C:153ページ

引用文A:「サイコパスのほうが他人のわずかな表情を読みとるのが得意である

ちなみに、サイコパスは悲しそうなふりや、楽しそうなふりをするなど、本当の感情とは異なる表情を 偽装することが得意であることもわかっています。

引用文B:「サイコパス的特性が警備厳重な刑務所の受刑者よりも、CEОのあいだにより多く見られるのは当然と言えるだろう。金、力、地位、支配—どれも典型的な代表取締役の領分で、それ自体が引く手あまたの資源だ―が組み合わされば、さらに上を目指すビジネス志向のサイコパスにとっては抗しがたい魅力となる。」

※管理人注:引用文中の「CEО」とは、最高経営責任者です。 

引用文C:「ヘアは熱く語った。「間違いなく、企業のほうが世間一般よりも、サイコパス的な大物の割合が多い。彼らは自分の地位や立場が他人に影響を与え、支配し、物質的利益を手にできるような組織にいるはずだ」

※管理人注:引用文中の「ヘア」とは、サイコパス研究の権威であるロバート・D・ヘア教授(ブリティッシュ・コロンビア大学)のことです。
※管理人注:引用文中の太字は管理人によるものです。

※引用元:『サイコパス』中野 信子著 (文春新書) 引用文:101ページ、6ページ 

引用文:「2012年、アメリカとカナダの研究チームが約100人を対象にした実験と調査から、お金持ちで高学歴、社会的地位も高い人ほど、ルールを守らず反倫理的なふるまいをすることを、アメリカ科学アカデミーの紀要に発表しています。」「おおよそ100人に1人くらいの割合でサイコパスがいると言えます。」

※管理人注:引用文中の太字は管理人によるものです。

※引用元:『サイコパス -冷淡な悩-』ジェームズ・ブレア、デレク・ミッチェル、カリナ・ブレア著  福井 裕輝訳 ( 星和書店)引用文:32ページ  

引用文: 「サイコパスが他と比較してIQが高いという証拠はまったくない。むしろ、 反社会的行動 は、知能や教育状況の悪さと関連している。」

※管理人注:引用文中の太字は管理人によるものです。

※引用元:『社内の「知的確信犯」を探し出せ』ポール・バビアク、ロバート・D・ヘア著  真喜志 順子訳  (ファーストプレス)引用文:61ページ

引用文:「強調しておきたいのは、サイコパシーがパーソナリティ障害の一つであり、パーソナリティ障害と精神病は違うものだということだ。

※管理人注:引用文中の「サイコパシー」とは、サイコパスの人格面の性質のことです。

※引用元:『サイコパスを探せ!』ジョン・ロンソン著 古川 奈々子訳 (朝日出版社) 引用文:141ページ

サイコパス研究の権威であるロバート・D・ヘア教授(ブリティッシュ・コロンビア大学)は次のように言っています。

引用文: 「企業や、政治や、宗教の世界にいるサイコパスは経済をめちゃくちゃにする。社会をめちゃくちゃにするのだ

プーチン大統領がはじめたウクライナ戦争のために膨大な被害者が世界中に出ています。一方で、戦争と無関係な、ふだんの生活の中であっても、ビジネスパーソンや政治家の姿をしたサイコパスが、数多くのダメージを社会に与えている可能性があります。

2-4  サイコパスの心の中

たとえ犯罪を犯していないサイコパスであっても、サイコパスには、共通する特徴的な行動がふだんから数多くみられます。それは、サイコパスの心の中が一般の人たちとは、大きくちがうためです。
サイコパスの心の中を、サイコパスではない人でもかいま見ることができる貴重な書籍があります。
その書籍とは、カリフォルニア大学アーヴァイン校で教鞭をとってきた神経科学者のジェームス・ファロン教授が著した『サイコパス・インサイド』です。

2005年10月、ファロン教授はアルツハイマー病の研究中に、自分を含めた家族の脳スキャン画像を見つづけていました。ある日、それらの中にサイコパスの特徴を持っている画像が偶然含まれていることに気づきます。
調べてみると、なんと、その脳スキャン画像はファロン教授自身のものだったのです! ファロン教授は自身を、サイコパスのすべての条件は満たしていないので、「私は基本的に普通の人間です。ただ一つだけ。僕は境界性のサイコパスなんだ」と言っています。

※引用元:「Mail Online」の「Scientist who found he’d the brain of a psychopath… and what it taught him about human nature」のWebサイト
※管理人注:若いころ(左)と、現在のファロン教授(右) 

ファロン教授は自分の脳スキャン画像にショックを受けたものの、自らの性格について著書『サイコパス・インサイド』の中で率直に書いています。                

※引用元:『サイコパス・インサイド』ジェームス・ファロン著  影山 任佐訳  (金剛出版) 引用文:165-175ページ

引用文:「私が他人の気持ちへの感情的斟酌をほとんどせずに、勝利を得るためなら、あるいは自分が望むことを相手にさせるためなら、私が何をしようとほとんど良心のうずきというものを感じない(中略)ゲームは冷酷無慈悲にやるのがベストだ(中略)話し相手の信頼なり信用を得るために私が嘘をつくということも知られている(中略)大抵の場合、他人を私が操作することは冒険や楽しみを私が追い求めることと関係している。私はスリルや楽しい時間を探していて、ちょっとした快楽のために他人を貶めてしまうことで私は有名であった。(中略)私には少しの共感性はあるのだけど、家族だろうと完全な赤の他人であろうと、誰でも同じように扱う傾向が私にはある。(中略) いかなる場合でも友人たちの側に立たない私は、裏切り者と彼らに思われるとしても、私がまったく正しいと考えてしまうのである。(中略)私の友情は、大半の人よりも純粋さに乏しい。多くの人は、私が他人に与えることが多い人間で、人々のために多くの手助けになっていると言うが、このようなことの動機の大半は後で彼らに私のために何かしてくれることを要求できるからである。(中略)私はひどい浮気者であり(中略)そしてダイアン(管理人注:ファロン教授の奥様)はこのことを知っている」

ファロン教授は、「自分の目的、愉しみごと」を追求する過程で、「誰かを傷つけることがたまたまあったとしても、悪いと感じるようなことは私にはないことははっきりしている。私は悪戯をよくする」とも述べています。

※管理人注:サイコパスを研究している神経科学者のファロン教授でさえ、自分がサイコパスに近いパーソナリティである事実に気づきませんでした。

次の脳画像は、ファロン教授が、自らの脳の活動の様子はサイコパスと似ている、と気づいたときの画像です。

※引用元:「Mail Online」の「Scientist who found he’d the brain of a psychopath… and what it taught him about human nature」のWebサイト

上のPetスキャン画像の人は、サイコパスではありません。
下のPetスキャン画像は、ファロン教授です。
矢印の先の色の違いを見くらべてください。
上のPetスキャン画像は黄色とやや赤味があるのに対して、下のファロン教授の画像は青色のみです。
黄色や赤色は、脳が活動していることをあらわし、青色は、脳が活動していないことをあらわします。

矢印の先の脳部位は、相手の悲しみや喜びや恐れなど、相手のいろいろな気持ちに自然と共感し(自分もその気持ちを自分なりに感じ取り)、自分がしたいことと相手の気持ちをくらべて、自分はどのようにふるまうべきなのかを、倫理的に判断をする部位です。

2-5 サイコパスのいろいろな特徴

※引用元:『サイコパス 秘められた能力』ケヴィン・ダットン著  小林 由香里訳  (NHK出版) 引用文A:16ページ 引用文B:17ページ 引用文C:29ページ

引用文A:「恐怖とも悲しみとも無縁の人間がいる―どんなにつらく苦しい状況でも、恐怖も悲しみも感じない人間。それはサイコパスだ。

※管理人注:引用文中の太字は管理人によるものです。

引用文B:「サイコパスに共通点があるとすれば、それは、どこにでもいるふつうの人間だと完全に信じ込ませる能力だ。しかし、見せかけ―非の打ちどころのない変装―の下では、冷酷非情な捕食者の氷のように冷たい心臓が脈打っている。

※管理人注:引用文中の太字は管理人によるものです。

引用文C:「1970年代半ばに女性35人の頭蓋骨をたたき割ったバンディは、生前のあるインタビューの最中、少年のような、いかにもアメリカ人らしい笑顔で言ったのだ。いい被害者は歩きかたでわかる、と。

※管理人注:引用文中の「バンディ」とは、テッド・バンディというアメリカ人のことで、サイコパスの連続殺人犯です。上の画像はバンディ本人です。引用元:『映画ナタリー』のWebサイト

2-6 サイコパスがもつ特徴の分類

オックスフォード大学実験心理学部のケヴィン・ダットン教授は、サイコパスの特徴を3つに分類しています。こちらです。

※参考文献:『サイコパス 秘められた能力』ケヴィン・ダットン著  小林 由香里訳  (NHK出版)、参考箇所:97ページ 

                                                                    

①自己中心的な衝動性について

たとえば、ファロン教授が、「冒険や楽しみを」求め、「スリルや楽しい時間を探して」「他人を貶めてしまう」のは、自己中心的な衝動性のためです。
サイコパスは、利己的な利益を得たり欲望を満たすために行動し、自分以外の人に不利益が生じても気にしません。サイコパスは、この衝動を抑えることができません。他人を不幸にしても意に介さず、それはアイツがバカだからだろう、自分のせいではないよと考えます。この利己的な行動は 行き当たりばったりに行われます。
他人を辱める時、自分は不道徳なことをしているかもしれない、という良心の呵責は一切ありません。

②恐怖心なき支配について

サイコパスは、人前では社交的に振舞う一方、心の中では自分の利益・欲望のために獲物(人間)をさがしています。ひどいことをされて傷ついた相手の気持ちへ共感できません。相手を自分の好きなように支配することに良心の呵責を感じません。共感する能力がないので、サイコパスの感情はきわめて限定されています。  

※引用元:『診断名サイコパス』ロバート・D・ヘア著  小林 宏明訳  早川書房 引用文:98-99ページ

引用文:「多くの臨床家に言わせると、サイコパスの感情は原始的情動、すなわち直截的な欲求に即反応する情動とほとんど変わらないほど浅い。(中略)生体臨床医学の記録機を使って研究室で実験をしてみると、サイコパスは恐怖に対する正常な生理的反応に欠けていることがわかる。そしてこの実験から、ひとつだいじなことがわかる。苦痛や罰を伴うのではないかという恐怖は、ほとんどの人にとって不愉快な情動であり、強い動機になっているということだ。恐怖があるから、私たちはなにかの行動を起こすことを控える(中略)結果に対する感情的な自覚がその決定を左右する。だが、そのような葛藤が、サイコパスにはない。」

サイコパスは恐怖とも悲しみとも無縁なので、自分の利益や快楽のためにだけ、人を支配してあやつろうとします。もしもたくらみが失敗して、周囲から責められたら困るという不安や恐怖はありません。とにかく巧みに人を支配することに快感をおぼえるのです。

③冷淡さについて

共感する能力がなく、感情の種類も少ないサイコパスの素顔は、冷淡そのものです。しかし、サイコパスは利己的な利益を手に入れたり欲望を満たすために、社交的に振る舞いながら相手の心の弱点を嗅ぎ分けてひそかに操ろうとしてきます。表面上は好人物に見えるので、人はかんたんにダマされてしまいます。
たとえば、ファロン教授が「他人の気持ちへの感情的斟酌をほとんどせずに、勝利を得るためなら、あるいは自分が望むことを相手にさせるためなら、私が何をしようとほとんど良心のうずきというものを感じない」と言うとき、良心の呵責はなく、尋常でない冷淡さがあります。
サイコパスの心の中が冷淡であることは、Pet(陽電子放出断層撮影)を使った実験から確かめられています(2-4節にあるPetスキャン画像をあらためて参照してください)。

第3章 少年時代

3-1 誕生するまで

※引用元:『クレムリンの殺人者』ジョン・スウィーニー著  土屋 京子訳  (朝日新聞出版) 引用文:52ページ 

引用文:「プーチンの母親マリアは工場労働者で、父親のウラジーミル・スピリドノヴィチ・プーチンはソヴィエト海軍の潜水艦乗組員だった(中略)1941年夏にナチスがロシアに侵攻したあと、父ウラジーミルはNKVDの陸軍歩兵師団で兵士として戦った。NKVDとはソ連の秘密警察組織で、のちにKGBと改名され、さらにFSBと改名される。(中略)父ウラジーミルは1942年に爆弾に当たって両足に大けがを負った。命は助かったが、一生足をひきずる歩き方になった。」

1930年代、二人の間に初めて誕生した長男のアルバートは乳児のうちに病死しました。2番目に誕生した次男ヴィクトルも、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによるレニングラード包囲戦の最中、病死してしまいました。

※管理人注:引用文中の「レニングラード」市は現在、サンクトペテルブルク市と改称されています。         

※引用元:『プーチンの世界』フィオナ・ヒル、クリフォード・G・ガディ著  畔蒜 泰助監修訳  (新潮社) 引用文:102ページ

引用文:「1942年初め、戦場で重傷を負った彼(管理人注:父親)はそのまま除隊。退院後も、プーチンの父は妻と息子(管理人注:「息子」とは、戦争中に死亡したヴィクトルのこと)とともにレニングラードにとどまった。41年9月から44年1月まで続いたナチスによるレニングラード包囲戦のあいだ、砲撃、爆撃、飢餓、病気により少なくとも67万人、一説によると150万人のレニングラード住民が死亡した。」

※引用元:「NHK」のWebサイト
※管理人注:レニングラード包囲戦下の様子 

ナチス・ドイツに包囲されて深刻な飢餓状態に陥ったレニングラードで、当時、プーチンの母親は餓死したと勘違いされ、他の死体と並べられた直後、さいわい意識を取り戻したので助かった、というエピソードがあります。当時、レニングラードでは2000人以上が人肉食いの罪で逮捕されるほどの飢餓状態でした。レニングラードからの脱出に運よく成功して生き残った女の子の日記をみてください。

引用元:『レーナの日記』エレーナ・ムーヒナ著  佐々木寛、吉原深和子訳  (みすず書房) 引用文A:156-157ページ 引用文B:180-181ページ

引用文A:「今日はみんなで肉とマカロニの入ったおいしいスープを食べた。猫の肉は、あと二回分残っている。それにあと三回分はアメリカ産の肉があるが、その後はどうなるのかわからない。またどこかで猫の肉が手に入ればいいが、そうしたらまたしばらくは安心なのだけれど。ほんとうに猫の肉がこんなに柔らかくておいしいとは、思ってもみなかった。」

※管理人注:引用文中の「アメリカ産の肉」というのは、アメリカから届いた援助食糧のことです。

引用文B:「ママは何かの用事でおばさんを訪ねて、うきうきした様子で帰ってきた。サーシャおばさんは食べてみるようにと、最高級の膠(獣類の骨や皮等を原料とする接着剤)で作った煮こごりをママに渡して、さらに自分でも作るようにと、板膠を一枚くれたのだ。」

《3-1節のポイント》
●ナチス・ドイツが第二次世界大戦中にソ連へ侵攻したことにより、多くの国民が殺されるなど、想像を絶する苦しみと悲しみが生じました。今でも、ナチス・ドイツへの深い憎しみが残っています。
●今日、プーチンが「ナチス」や「ネオナチ」などのキーワードを悪用してロシア国民を扇動できる素地ができたのです。

3-2 小学生時代

少年プーチンの小学校の担任教師は、プーチン少年の両親について、このように語っています。

※引用元:『プーチン、自らを語る』ナタリヤ・ゲヴォル・クヤン、ナタリア・チマコワ、アンドレイ・コレスニコフ著  高橋 則明訳  (扶桑社) 引用文:20ページ

引用文:「ワロージャ(管理人注:プーチンの愛称)の母親はとてもいい人でした―やさしく、献身的で、善良な心を持っていました。高い教育は受けていませんでした。五年生を修了していたかどうかさえわかりません。生涯ずっと働きづめでした。掃除婦をし、夜はパン屋の配達をし、研究所で試験管を洗っていました。店の警備員をやっていたときもあったと思います。
ワロージャの父親は工場で機械技師をしていました。(中略)ついでですが、彼は、片足が動かせないにもかかわらず、長いあいだ、障害者年金を受けませんでした。家の料理はいつも彼の役目でした。」            

※引用元:『プーチン 生誕から大統領就任まで』  フィリップ・ショート著 山形 浩生, 守岡 桜訳  (白水社) 引用文A:33ページ、引用文B:38ページ

引用文A:「ヴォロージャが幼い頃に母親は異常なほど過保護だった。ヴォロージャを絶対に家から出さず、日中は一緒に過ごすために夜勤に出ると言い張って、まず清掃作業員、その後はパン屋で働いた。」

※管理人注:引用文中の「ヴォロージャ」は、ワロージャと発音表記が異なるだけで、やはりプーチンの愛称です。

※引用元:「NHK」のWebサイト 
※管理人注:写真は、幼い頃のプーチンと母親です。

過保護に育てられたプーチンが通学した第一九三番学校があるジェルジンスキー地区は当時、犯罪多発地域で、すさんでいました。

引用文B:「学校のあるジェルジンスキー地区は貧しく、さびれていた。プーチンと同世代で、同じ地域で育ち、後にこの市で有名な政界指導者となったアレクサンドル・ベリャーエフによると、この地域は「犯罪多発地域」で、十代の若者は皆、シュパナ、すなわち小悪党、街のチンピラだったという。良くても専門技能を身につけて、工場勤めが精いっぱいだった。学校で学べる課程も8年制のみで、10年や11年の課程がない。だからこの学校はそれ以上のものを望めない一家の掃きだめになっていた。」

プーチン少年は、柔道と出会い、KGBに入ることを夢見るまで、かなりの問題児でした。

※引用元:『プーチンと柔道の心』ウラジミール・プーチン, ワシーリー・シェスタコフ, アレクセイ・レヴィツキー 著, 山下泰裕, 小林和男 編, イーゴリ・アレクサンドロフ 訳   (朝日新聞社) 引用文:55-56ページ

引用文:「私は子供の頃不良だったのです。(中略)ほとんど時間を外で遊んで過ごしました。つまり、他の子供たちと一緒に、通りでよたっていたということです。ですから、私は「通りで育った」と言ってもいいでしょう。両親は私をまともにしようと、接する時間をなるべくたくさん取ろうとしていました。そのために母は仕事を辞めたくらいです。「通り」には独自の厳しい掟がありました。(中略)たいていは、掴み合いの喧嘩です。(中略)強いものが正しい、ということになるのです。強い人が頼られるのです。」

※管理人注:引用文中の太字は管理人によるものです。

※引用元:『リトビネンコ暗殺』アレックス・ゴールドファーブ、マリーナ・リトビネンコ著 加賀山 卓朗訳 (早川書房) 引用文:245ページ

引用文:「クラスメイトによると、十歳そこそこで”小さな虎のように敵に飛びついて引っかき、噛みつき、髪を引っぱっていた”。教師と父親がそろって止めたものの、結局、悪い仲間とつるむようになった—近所の家の屋上やガレージ、倉庫をねぐらにしていた兄弟と。プーチンは、友人に対しては恐ろしいくらい忠誠を尽くすようになった。

※管理人注:引用文中の太字は管理人によるものです。

《3-2節のポイント⑴》
「友人に対しては恐ろしいくらいの忠誠を尽くす」義務がある。この「通り」の掟は、後年、プーチンの性格へ大きな影響を与えることになります。
この点は、プーチン独自の、サイコパシーとは無関係な、パーソナリティの特徴となります。

複数の教師はプーチン少年の様子を、次のように語っています。

※引用元:『プーチン 生誕から大統領就任まで』  フィリップ・ショート著 山形 浩生, 守岡 桜訳  (白水社) 引用文:39ページ

引用文:「同級生たちと比べても、幼いヴォロージャはやっかいな存在だった。「ずるいし、いい加減な」生徒で、「必ず問題を起こす」とタマラ・チゾーヴァは同僚にこぼしている。二秒も静かに座っていられず、休み時間を告げる鐘が鳴るやいなや階段を走り回っては、他の教室で何かおもしろそうなことがないか確認に行った。別の年配の教員はつぎのように回想している。
最初のうち(彼)は、とてもだらしなかった。集中力に欠け、学業にほとんど関心がなかった。消しゴム、ペン、鉛筆を床に投げてばかりいた。席を立って取りに行けるように―あるいは、窓の外を眺めに行く口実として。」  

※引用元:『プーチンの世界』フィオナ・ヒル、クリフォード・G・ガディ著  畔蒜 泰助監修訳  (新潮社) 引用文:116-117ページ

引用文:「私は初めての喧嘩でボコボコにやられ、恥をかいた・・・・・・その事件で初めて貴重な”授業”を受けたのだ・・・・・・そこから私は四つの結論を導き出した。その一。私が悪かったということ。(中略)私のほうから勝手にいちゃもんをつけたことは間違いない。だから、相手はすぐに私を殴ってきた。自業自得だ・・・・・・結論その二。・・・・・・どんな相手に対してもそういう態度を取ってはいけないし、誰であれ敬意を払わなければならない。それはまさに”実践的”な教訓だった。その三。自分が正しくても悪くても、どんな状況でも強くなければならない。そうでないとやり返せない・・・・・・そして、その四。攻撃や侮辱にはいつでもすぐさま反撃できるようにしておかなければいけない。すぐにだ!・・・・・・勝ちたければ、どんな戦いでも最終決戦のつもりで最後まで戦い抜く・・・・・・引き返すことなどできず、最後まで戦う以外に選択肢はないという覚悟でね。のちに、それが有名な鉄則の一つであることをKGBで教えられた。だけど私はずっと前、子ども時代の喧嘩ですでに学んでいたんだ。」

※管理人注:引用文中の太字は管理人によるものです。

※引用元:『プーチン 生誕から大統領就任まで』  フィリップ・ショート著 山形 浩生, 守岡 桜訳  (白水社) 引用文:42-43ページ

引用文:「学校で親友になり、四年間同じ机で学んだヴィクトル・ボリセンコはこう振り返る。
「あいつはだれとでも喧嘩したね。いまだに感心するよ。(中略)恐怖心がなかった。自己防衛本能が備わっていないかのようだ。相手の少年のほうが強くて自分がぶちのめされる可能性など頭になかった。(中略)図体の大きな男に腹を立てれば、すぐに飛びかかる―ひっかいて、かみついて、髪をごっそりむしって(中略)。クラスで一番強いわけじゃないが、喧嘩なら負け知らずだ。激高して、最後までやめないからね。」

※管理人注:下の男児がプーチン少年です。引用元:『マネー現代編集部』のWebサイト 

《3-2節のポイント⑵》
プーチン少年は自ら得た教訓を、今日まで実践に生かし続けることになります。つまり、たとえ自分が悪くても、いったん始めた喧嘩(戦争も)は勝つまで戦う以外に選択肢はない、という教訓です。

恐怖心でひるむことなく己の欲望と利益のために戦い続ける姿勢は、サイコパスの特徴である「恐怖心なき支配」です。恐れることなく相手をねじ伏せて支配しようとする特徴です。

※引用元:『サイコパス 秘められた能力』ケヴィン・ダットン著  小林 由香里訳  (NHK出版) 引用文:203ペーシ  

引用文:「扁桃体は脳内にある感情の管制塔だ。感情という空域に目を光らせ、わたしたちがものごとをどう感じるかを監督する。ところがサイコパスの場合は、この空域の一部、恐怖に関係のある部分が空っぽになっている。」

※管理人注:引用文中の「空っぽになっている」は、あくまでもたとえであり、正確には扁桃体が「恐怖で活性化しにくい」という意味です。

※引用元:「NHK」のWebサイト

やがてプーチン少年は、他人を自分のためにいつまでも支配しつづけるには、自分の腕力だけでは不可能だ、という現実に気づきます。

※引用元:『プーチン、自らを語る』ナタリヤ・ゲヴォル・クヤン、ナタリア・チマコワ、アンドレイ・コレスニコフ著  高橋 則明訳  (扶桑社) 引用文:28ページ

引用文:「私は彼ら(管理人注:同級生たち)に命令しようとは思わなかった。自分の独立性を守ることのほうがずっと重要だった。これを大人の社会にたとえていえば、少年時代の私はいわば裁判所の役目を果たしていたのであって、行政府の役目ではなかった。それができているうちは学校が好きだった。
だが、それにも終わりが来た。ほどなく、中庭で遊ぶだけではものたりなくなり、私はスポーツをするようになった。それからは、自分の社会的地位を守るために、学校でも優等生にならざるをえなかった。正直な話、六年生まで、私はかなりでたらめな生徒だったよ。」

※管理人注:引用文中の太字は管理人によるものです。

3-3 ソ連での暮らしぶり

ここで、プーチン少年が暮したソ連時代のまわりの人々の暮らしぶりを知っておく必要があります。
当時のレニングラードでの生活は、同時代の日本での生活と非常に異なっていました。
暮らしぶりの一部は、ソ連成立以来、今日まで100年近く連綿と今のロシア社会に引き継がれています。
これらの特徴は、ロシア国民が政治家としてクリーンとはほど遠いプーチン大統領を支持してしまう大きな要因となっています。

※引用元:『ソ連のマフィア』アンドレイ・イレッシュ著 鈴木 康雄 訳 (読売新聞社) 引用文A:176ページ、引用文B:202ページ、引用文C:219ページ

引用文A:「ソ連の国民は、横領、汚職、指導者の不正などの犯罪は存在しないとか、存在したとしてもほんのわずかだ、とは思ってもいない。むしろ、蔓延しているというのが、国民の常識だ。」

引用文B:「今までのソ連には共産党幹部はもちろん、共産党員は法の裁きを受けないという不問律があるのだ。それどころか、共産党のお偉方は「おれは法廷などよりずっと偉い存在だ」と考えている。言い換えれば、共産党幹部は、原告としてさえ法廷に姿を見せることも、本人に関して裁判審理で事実関係が裁定されることもあり得ない、という前提に立っているのだ。共産党政権は、いかなる法律も超越して存在してきたのだ。」

引用文C:「ソ連内務省資料によると、1986年以降、ソ連で摘発された経済犯罪は100万件を超した。この中には、大規模な横領事件4万件、贈収賄事件2万8千件、ヤミ行為17万件が含まれている。経済事犯に関係して取り調べを受けた人は、120万人にのぼる。ここでぜひとも考えなければならないことは、経済事犯のうち摘発されない事件が全体の70%にのぼり、さらに横領、贈収賄に限っていえば、全体の95%は発覚せずに闇に葬られていると推定されていることだ。」

ソ連では、商店や工場から商品・資材などを労働者の一部がこっそりと横流しして稼いだり、手続きを遅らせる役人が早く手続きをしてほしい人から賄賂を平気で受け取って手続きを早めたり、軍でも士官の一部が兵器を横流しするなど、国全体に不正が蔓延していました。

※引用元:『頭じゃロシアはわからない』小林 和男著 (大修館書店) 引用文:35ページ

引用文:「魚は頭から腐るルイバ ガラヴイ グニョート ロシアにこの諺があることを知ったのは50年前NHKの特派員としてモスクワに赴任した時」だ。

※管理人注:引用文中の諺は日本にある「鯛は頭から腐る」に相当します。

ロシアの腐敗は、プーチン大統領時代から始まったわけではありません。それは、ソ連時代にさかのぼります。さらにそれは、「頭から腐る」だったのです。不届き者たちが不正に得たお金の一部は、お目こぼしをいただくために、その管理者へとわたり、その管理者の儲けの一部がさらに上級者へと、つまり上へ上へと流れていきました。ブレジネフ書記長のまわりでも腐敗がはびこり、ブレジネフ死亡後に逮捕者が出たほどです。この、不正に得たお金を上から上へと渡していくシステムは、今日のロシアにも連綿と引き継がれています。

※引用元:『マフィアと官僚』スティーヴン・ハンデルマン著  柴田 裕之訳  (白水社) 引用文:111-112ページ

引用文:「1983年8月、あるスキャンダルが衆目を集めた。かつてのブハラハン国の都として名高い中央アジアのブハラに住む役人の自宅が捜査され、現金百万ルーブル、のべ1,600メートルもある金の紋織物、ダイヤモンドやルビーやスイス製腕時計やジーンズの山が発見されたのだ。綿花生産の報告書に虚偽の記述をするなどして賄賂をもらう、手の込んだ犯罪で得たものであることを、その役人は認めた。(中略)やがてこのスキャンダルに連座することになった人間の中には、ソビエト内務省の次官で、元国家指導者、故レオニド・ブレジネフの女婿のユーリ・チュルバノフや、政治局の候補メンバー(投票権をもたない)でブレジネフの盟友だった、ウズベク共和国共産党指導者のシャラフ・ラシドフらがいた。(中略)警察の手も体制の深奥までは届かなかった。(中略)共産党の中央委員会と直結していることは疑いようもなかった。」

※管理人注:ブレジネフの娘であるガリーナ・ブレジネワとその夫のユーリー・チュルバノフの写真です。引用元:『RUSSIA BEYOND』のWebサイト

※引用元:『クレムリンの子どもたち』ワレンチーナ・クラスコーワ編 (成文社) 引用文:276ページ

引用文:「贅沢な生活、莫大な賄賂や≪プレゼント≫、大量の食料品の受領、宝石をめぐる陰謀、そんなものは、ブレジネフの時代には、それほどの犯罪とは見なされなかった。つまりそれが、ブレジネフの親戚縁者のみならず、チェルネンコを取り巻く面々の生活スタイルだったのだ。そんな生活スタイルを、多くの党の大ボス小ボスが—もちろん誰もがそうだというのではないが―真似をしたのである。」

※管理人注:引用文中の「チェルネンコ」とは、ゴルバチョフの前のソビエト連邦最高指導者を指します。

ソ連が崩壊した後のロシア連邦の政治家の個性はどうだったのでしょうか? 特にここで注目したいのは、個性の形成へ大きくかかわる少年時代です。ロシア連邦で大統領選へ立候補した2人の政治家の少年時代の例を紹介します。
2012年のロシア大統領選へ立候補したが落選したエドワルド・リモノフ(小説家、国家ボリシェヴィキ党党首)の少年時代をみてみます。

※引用元:『リモノフ』 エマニュエル・キャレール 著 土屋 良二訳 (中央公論新社) 参考箇所:48ページ 引用文A:49ページ 引用文B:51ページ

少年リモノフは親友コスチャと共謀して食料品店へ盗みに入ったことがあります。地下室の窓を、ジャンパーをぐるぐる巻きにした拳で叩き割り、ヴォートカ(管理人注:ロシアのお酒)の瓶やレジの中の20ルーブルなどを盗んだのです。リモノフは、帰り際に店長室で下痢便を噴射して残していきました。リモノフと一緒に盗みを行ったコスチャは、盗み終わって店を出た後、自慢げにリモノフへ言いました。
引用文A:「「賭けてもいい」、コスチャは言った。「店長の野郎、俺たちの盗みを利用するぜ。これまで使い込んできた金を、盗まれたことにしてな」。」
引用文B:「よく知らないのに、政治犯を、もったいぶったインテリだとか、理由もわからず牢屋にぶち込まれたばか者だ、などと考えていた。その代わり、ギャングが英雄であり、なかでも、「ヴォール・フ・ザコーニエ(鉄の掟を持った男)」と呼ばれるギャングの中のギャングは別格の英雄だった。」

1991年にエリツィン元大統領が当選したソ連内のロシア共和国大統領選に立候補して落選したウラジーミル・ジリノフスキー(自由民主党党首)は、ソ連崩壊後も大統領選へ立候補し続けましたが、すべて落選しました。彼の少年時代は苛酷なものでした。 ジリノフスキーの父親は1946年に若くして交通事故死し、カフェテリアで働く母によってジリノフスキーは育てられました。生活は極めて貧しく、いつも腹を空かせていました。

※引用元:『ロシアからの警告』ウラジーミル・ジリノフスキー著 (光文社) 引用文:36ページ

引用文:「時はただただ過ぎた。腹のほうもすいて仕方なかったが、これには見張りのいない畑からりんごや梨やサクランボを失敬することで対応した。近所には畑を有している個人の家がたくさんあったが、私はほかのイタズラっ子たちとそうした畑に入りこんだ、というわけである。こうした食べ物は本当に助かった。さらに身体面についていえば、この焼きつくような夏の陽のもと、私が着ているものといったら下着、それもランニングシャツ一枚というのがほとんどで、足のほうもたいていは裸足だったから、体は強くなる一方だった。」

ロシア人はソ連時代から既に、共産主義の理想とは正反対に存在する不正や貧困や非行に慣れ切っていました。
現在のロシア連邦でも、同じ状況がつづいています。

《3-3節のポイント》
●ロシア連邦はいまだに、横領、汚職、指導者の不正などの犯罪が蔓延しています。「魚は頭から腐る」の諺どおり、偉い人ほど腐っていることを、ロシア国民はほとんどあきらめています。

3-4 スパイへの憧れ

※引用元:『プーチン、自らを語る』ナタリヤ・ゲヴォル・クヤン、ナタリア・チマコワ、アンドレイ・コレスニコフ著  高橋 則明訳  (扶桑社) 引用文:32-33ページ

引用文:「10歳か11歳からスポーツをやりはじめた。私はけんか早いところがあったので、いつまでも中庭や校庭の王様でいつづけられないことがわかると、すぐにボクシングを習うことにした。だが、長続きはしなかった。鼻を折ってしまったのだ。(中略)その後、ボクシング熱はすっかり冷めてしまった。
そこで私はサンボを習うことにした。(中略)町の通りから私を引き離してくれたのはスポーツだった。(中略)コーチは私たち全員を柔道に転向させ、私たちもそれに従った。(中略)柔道は哲学だ。年長者や対戦相手を敬う。柔道は弱者のものではない。すべてに教育的な要素がある。」

プーチン少年は、喧嘩に勝つためにスポーツをはじめますが、たまたま13歳のときに柔道へ転向することとなり、喧嘩以外の戦い方を学ぶようになりました。

※引用元:『プーチンと柔道の心』ウラジミール・プーチン, ワシーリー・シェスタコフ, アレクセイ・レヴィツキー 著, 山下泰裕, 小林和男 編, イーゴリ・アレクサンドロフ 訳   (朝日新聞社) 引用文:66ページ

引用文:「私の性格は、どちらかといえば短気なほうで、すぐに頭に血が上ってしまうほうです。でも、それが常に好ましい行動ではないことが柔道などを通じてわかりました。それよりも大事なことは自分の気持ちを抑えて、素早い反応、素早い対応をすることで、その方が効果的です。そうして、初めて最高の結果を出すことができます。」

プーチン少年は、その頃、ソ連で上映されて人気だった映画『剣と盾』(1968年)に夢中になりました。ソ連のスパイがナチス・ドイツへ潜入して大活躍をするという物語です。この映画をきっかけとしてスパイに心を奪われ、スパイ物のドラマやスパイ小説に夢中になり、ついには、ソ連の諜報機関KGBを志望しました。

※『剣と盾』(1968年)のワンシーンです。引用元:『RUSSIA BEYOND』のWebサイト 

なぜそこまでスパイに憧れたのかと言えば、プーチンは「とにかく驚いたのは、全軍をもってしても不可能なことが、たった一人の人間の活躍によって成し遂げられることだ。一人のスパイが数千人の運命を決めてしまう。」と、自伝(『プーチン、自らを語る』)に書いています。

当時、人気を博したスパイ小説に『春の十七の瞬間』(1970年)があります。ソ連でテレビドラマ化もされました。この小説の主人公は、ナチス・ドイツへソ連のスパイとして潜入したスティルリッツです。スティルリッツのキャラクターには、現在のプーチンと共通点がありそうです。

※引用元:『春の十七の瞬間』ユリアン・セミョーノフ 著、伏見 威蕃訳 (角川文庫) 引用文A:63ページ、引用文B:210ページ

引用文A:「危険をもてあそぶことが、スティルリッツの場合は、冷静な思考を助けるのだ。」 
引用文B:「スティルリッツの精神は、肉体を細かい点まで完全に制御することができ、その結果、偉大な俳優のみに可能な完全な調和がかもしだされていた。」

プーチン少年は16歳の時に、思い切ってKGBレニングラード支部を訪問して採用基準を聞き出します。軍出身か大学の法学部卒業が必要と言われ、プーチン少年はレニングラード大学法学部受験を、周囲の猛反対を尻目に決意しました。
なぜ周囲が猛反対したのかというと、レニングラード大学は、ソ連国内ではモスクワ大学と一、二位を争う難関大学だったからです。小学校低学年のときに勉強をしなかったプーチン少年には到底無理だと思われたのです。
ちなみに、ウィキペディアによると、2013年までのノーベル賞受賞者は、モスクワ大学で6人、サンクトペテルブルク大学(旧レニングラード大学)で7人だそうです。
不安や恐怖を感じることなく、目的をまっしぐらに追求するサイコパスらしい決断だと考えられます。ただし、サイコパスには、人に言えないような裏の手口を使って目的を達成しても、何ら良心の呵責を感じないという特徴があります。
プーチンは、レニングラード大学法学部へ現役合格を果たしました。
なぜ合格できたのでしょうか? プーチン少年が記憶力に優れていたことは担任教師が認めています。人知れず歴史の本をよく読んでいたので、授業中に教師がおこなった歴史の説明が間違っていると突然指摘し、まわりを驚かせた、という同級生の証言もあります。
実は、レニングラード大学に合格できた理由については、三つの説があります。

※参考文献:『プーチン 人間的考察』木村 汎著  ( 藤原書店) 参考箇所:148-149ページ

この説は、次の噂があるので、あながち根も葉もない話であるとかんたんに切り捨てることはできません。この噂が正しければ、プーチンは大学在学中にKGBの手先として雇われていたことになります。

※引用元:『独裁者プーチン』名越 健郎著  (文春新書) 引用文:61ページ

引用文:「プーチンは大学時代の二年間、KGBの「インフォーマント」(情報提供者)として働き、仲間を監視していたとの説もある。金回りがよく、大学でただ一人自家用車に乗っていたとの証言も残っている。」

※管理人注:プーチンが大学生時代に自動車を所有していたのは事実です。当時、ソ連のふつうの大学生が(一般社会人ですら容易ではありません)自動車を持つのは極めて異例でした。

この説には、ロシアからイギリスへ亡命し、2006年11月にロンドンで毒殺された元KGB職員アレクサンドル・リトビネンコ氏による、暗殺前の映像付き証言もあります。

※引用元:ドキュメンタリー映画『暗殺・リトビネンコ事件』アンドレイ・ネクラーソフ監督、字幕・太田 直子、(アップリンク) 引用箇所:17:28-18:26

引用文:「プーチンは大学へ入る前KGBに協力を志願した。それで利用されたんだ。つまり彼は在学中、級友の密告を求められた。おそらくKGBで、最低一年は訓練を受けたろう。彼が協力したのは後にFSBとなる第5局だ。」

他にも、KGBの手先になった時期については研究者によって微妙に異なるものの、ドイツのエアランゲン・ニュルンベルク大学の元教授ミヒャエル・シュテルマー氏は具体的に記述しています。

※引用元:『プーチンと蘇るロシア』ミヒャエル・シュテルマー著、池田 義郎訳、(白水社) 引用文:45-46ページ

引用文:「法学部の二年生を終えるころまでに願いがかない、彼はKGBに迎え入れられた。これはよい給料が見込めたし、さらなる研修の機会も保障されており、昇進の可能性も色々あった。(中略)モスクワで一年間の特別訓練を積んだのちに、(中略)彼は、サンクト・ペテルブルクで監視活動についたが、そこで彼は、友人の学生をスパイしたり、KGBのために働くようあらゆる手を使って外国からの訪問客を勧誘したりしなければならなかった。」

二つ目の説は、こちらです。

※引用元:『プーチン 生誕から大統領就任まで』  フィリップ・ショート著 山形 浩生, 守岡 桜訳  (白水社) 引用文A75-76、引用文B:76ページ

引用文B:「一説には、ラフリン(管理人注:プーチンのコーチ)の同僚のレオニード・ウスヴャツォフが、プーチンに出願を断念させられないとわかって、大学のスポーツ学部長ミハイル・ボブロフへの影響力を使ってプーチンを合格させたとも言われている。この主張に信憑性があるのは、入学選考の直後にプーチンはサンボクラブ、トルードをやめて、全大学が加盟している「ブレヴェーストニク」で競技を続けるように申し渡されたからだ。拒否すると、とんでもない騒ぎになった。ボブロフは自分が騙され、プーチンが虚偽申告で入学許可をとりつけたと考えた。「非常に緊迫した関係だった」とヴェラ・グレーヴィチはこの二人について書いている。」 

最後に、三つ目の説はこちらです。
説③~プーチンは必死に勉強し、学業の遅れを取り戻して、見事に合格した。

どの説が正しいのかは、いまだに明確な結論を出せません。確かめようがないからです。
ちなみに、説②に登場する人物レオニード・ウスヴャツォフの素性について補足します。

※引用元:『クレムリンの殺人者』ジョン・スウィーニー著  土屋 京子訳  (朝日新聞出版) 引用文:59-60ページ

アメリカへ亡命中のロシアの小説家ザリーナ・ザブリスキーは、サンボのレニングラード武術クラブでプーチンのコーチをつとめたレオニード・ウスヴャツォフについてこう述べています。
引用文:「この人物はプロレスラーであり、スタントマンであり、組織犯罪グループのボスでした。通貨偽造と輪姦の前科二犯で20年近く服役しています」。ウスヴャツォフの墓碑には「我は死すともマフィアは死せず」と刻まれている。」

いずれにしても、プーチンはレニングラード大学法学部へ現役合格を果たしました。

3-5 ソ連国民の誇り

ソ連が崩壊するまでの時代、ソ連には横領、汚職、指導者の不正などの犯罪が蔓延していました。しかし、外国からの情報が厳しく遮断された中、ソ連共産党のプロパガンダに洗脳されていたソ連国民の大半は、長いあいだ、ソ連には「世界一」があふれていると思い込み、自分の国に誇りを持っていました。
ソ連は世界最初の社会主義国であり、マルクス主義が説く理想社会(共産主義社会)はいずれソ連で実現するだろうから、ソ連は「世界一」よい国だと信じていたわけです。

参考文献:『オリガ・モリソヴナの反語法』米原 万里著 (集英社文庫) 参考箇所:66ページ

フルシチョフ書記長(当時)は、このままソ連が順調に発展していけば、1980年にはソ連が共産主義社会に転じると信じていました。

ソ連は、核兵器の保有数と国土面積の大きさでは、たしかに世界一です。
ソ連国民が考える、こんな「世界一」もありました。

※引用元:『ロシア人しか知らない本当のロシア』井本 沙織著  (日経プレミアシリーズ) 引用文:19-20ページ

引用文:「私の同世代である60年代生まれの人々は、「ソ連の〇〇が世界一である」という、その時代の「一般常識」の下に育った。宇宙開発で世界一(管理人注:ガガーリンの人類初の有人飛行を指します)、軍事力で世界一、核物理学で世界一、水泳で世界一、男子体操で世界一。それにモスクワの地下鉄は世界一豪華で、アイスクリームは世界一おいしい。」

しかし、ソ連国民がどれだけ待っても理想社会は実現しません。それどころか、横領、汚職、指導者の不正などの犯罪は悪化するばかり。物不足も悪化していきます。かといって、ソ連国民が不満を口にすると、それを聞きつけた人に密告されてKGBに捕まり、強制収容所送りとなるかもしれません。

※参考文献:『歴史主義の貧困』カール・R・ポパー著 久野 収 、市井 三郎訳 (中央公論社)

 なぜ理想社会は到来しないのでしょうか? マルクス主義は、資本主義が発展すると必然的に共産主義へ転じると説明しています。実は、この19世紀の理論は西側世界の専門家から理論的に完全な誤りであると何度も指摘されていました。にもかかわらず、ソ連をはじめ社会主義国の指導者たちは、まったく理解しようとはしませんでした。したがって、理想社会はいつまで待っても到来しなかったのです。
結果として、ソ連の実態はきわめて深刻になる一方でした。

※引用元:『頭じゃロシアはわからない』小林 和男著 (大修館書店) 引用文:163ページ

引用文:「ソ連の農業政策は悲惨な失敗だった。それは農地を見れば私にもはっきり分かった。農地は全て国の管理になり、農地を取り上げられた農民はいわば勤め人の農業従事者になった。作物の出来不出来も自分には関係なく、時間だけ農場に出ていれば仕事は終わりという農業がいかに悲惨なものだったかは想像できるだろう。農場に行ってみると広大な農場の隅に農民の住む住宅があり、荒れ果てた農地とは対照的にその住宅の周りだけは作物が着々と成長していた。住宅の周り600平方メートルは自留地と呼ばれ、農民はここで作った作物を自由に処分することが許されていた。農作物だけではなく鶏や豚、山羊などの家畜も飼うことができた。」

しだいに、ソ連の若者たちの間には、シニシズム(冷笑主義)が広がります。

※参考文献:『最後のソ連世代』 アレクセイ ユルチャク著 半谷 史郎 訳 (みすず書房) 

ソ連でのシニシズムとは、次のような生き方です。少なくとも最低限の暮らしがソ連では保証されているし、社会主義体制は永遠に続くのだから、ソ連共産党を批判する真似は絶対にしないでおこう。かといって、ロックミュージックやファッションなど、西側の大衆文化は好きだから、KGBに咎められない程度にこっそりと楽しもう、という態度です。
理想社会の到来は期待できないということは肌感覚で明らかでした。当時のソ連でよく使われたロシア語が「超越(ヴニェ)」です。悟りとも、あきらめとも違う独特なニュアンスです。ソ連はそれでもいい国であり、「世界一」はまだまだ残っているのだから、「超越(ヴニェ)」して気楽に生きていこうと思っている状態でした。

※管理人注:エレキギターで演奏をするソ連の若者たち。引用元:『RUSSIA BEYOND』のWebサイト

《3-5節のポイント》
●今でもロシア国民の大半は、ロシアが「世界一」であるべきだと思っています。
●一方で、シニシズム(冷笑主義)は徐々に広まっていきます。今の体制は続くのだから、引きつづき政府の言うことには素直に従い、なるべく現実を深く考えずに、「超越(ヴニェ)」して生きていこうとします。

●下手に政府にさからうと、ひどい目にあうからやめておこう。警察も裁判所も政府の言いなりだから、と考えています。

第4章 KGB

4-1 いよいよスパイになる

プーチンは、大学へ進学後も柔道クラブへ所属し、トレーニングに励みました。

※引用元:『独裁者プーチン』 名越 健郎著  (文春新書)  引用文:60ページ

引用文:「柔道に熱中したプーチンが黒帯を取ったのは18歳の時だ。学生時代、市の柔道大会決勝戦で、背負い投げを仕掛けたプーチンは、カウンターを食らって一本取られ、敗退した。しかし、次の大会では同じ相手に闘志をむき出しにして背負い投げを掛けまくり、一本勝ちで優勝したエピソードがある。一度決めたら徹底して固執する。負けず嫌いの性格なのだ。」

※管理人注:プーチンは24歳の時に、レニングラード市の柔道大会で優勝しました。

プーチンの生活費は奨学金だけでは足りず、裕福ではない両親の仕送りにも助けられました。 

※引用元:『プーチン、自らを語る』ナタリヤ・ゲヴォル・クヤン、ナタリア・チマコワ、アンドレイ・コレスニコフ著  高橋 則明訳  (扶桑社) 引用箇所:43ページ 参考箇所:50-51ページ

引用文:「多くの人と同じように建設現場で働いて金を稼ぐこともできた。(中略)私も一度、建設作業員として働いたことがある。」

そんな学生生活であったにもかかわらず、プーチンは自動車を手に入れました。プーチンはその理由を、母親が喫茶店で釣銭代わりにもらった宝くじが運よく当たり、母親は賞品の自動車(ザポロージェツという名前のソ連製自動車)をプーチンへプレゼントしてくれたからだと言っています。その真偽は不明です。
プーチンは自伝(『プーチン、自らを語る』)の中で、車で人をはねたことがあるが、そのときプーチン自身は冷静だったと明かしています。被害者はそのまま逃げたと侮蔑的に語っています。この冷静さと冷淡ぶりは、サイコパスの特徴と一致しています。
プーチンの卒業論文は、国際貿易における最恵国待遇制度について書かれたものでした。
プーチンは自伝( 『プーチン、自らを語る』 )の中で、大学を卒業する前に、大学に勤めるKGB職員ドミトリー・ガンジェロフが急に現れ、KGBへ勧誘したと語っています。プーチンはこの瞬間をじっと待っていたそうですが、真偽は不明です。
KGBに採用された後、プーチンは、ある計画を立案するKGB内の会合に参加します。プーチンは計画の実行方法を聞いて発言をしました。

※引用元:『プーチン、自らを語る』ナタリヤ・ゲヴォル・クヤン、ナタリア・チマコワ、アンドレイ・コレスニコフ著  高橋 則明訳  (扶桑社) 引用箇所:65ページ

引用文:「「それは法律に抵触します」(中略)私は法律を引用した。(中略)古参部員がわずかの皮肉もなしに言った。「我々にとっては指令が法律なのだ」議論はそれで終わりだった。」
反論をせず、そのまま受け入れたところが、サイコパスらしい点です。
良心の呵責を感じないサイコパスにとって、これはすんなりと受け入れ可能な経験であっただろうと推察されます。
後年、プーチン大統領は、法律に抵触する行為を自らやってのけるだけではなく、自分に好都合なように、違法行為とされていた行為を合法化するため、次々と法改正をくりかえしていくのです。

KGB時代には危機的状況に陥ることもありました。そんな時の自らの様子について、プーチンは自伝で語っています。

※引用元:『プーチン、自らを語る』ナタリヤ・ゲヴォル・クヤン、ナタリア・チマコワ、アンドレイ・コレスニコフ著  高橋 則明訳  (扶桑社) 引用文:51-52ページ

引用文:「冷静でいられる。むしろ冷静過ぎるくらいだ。のちに私は諜報学校に行ったときに、次のようなマイナスの性格評価を下されたのだ。「危険を察知する感覚が鈍い」これは重大な欠点だと考えられた。危機的状況において正しい対応をするためには興奮していなければならない。恐怖は苦痛と同じで、表示器の役割を果たすのだ。身体の痛みは、どこかが悪いことを知らせている。それは信号なのだ。私は長いあいだ危険を察知する感覚を働かせる必要があった。」この冷静さも、サイコパスゆえと考えられます。プーチン自身は、柔道の奥義などを身につけたから冷静でいられると考えていたふしがあります。

※引用元:『プーチンと柔道の心』ウラジミール・プーチン, ワシーリー・シェスタコフ, アレクセイ・レヴィツキー 著, 山下泰裕, 小林和男 編, イーゴリ・アレクサンドロフ 訳   (朝日新聞社) 引用文:101ページ

引用文:「武士道の芳香を残す嘉納の理論構築のもとは、起倒流宗家代々に伝わる一七世紀の禅僧沢庵秘伝の教えである。沢庵は、勝利は堅固なる精神と意志の集中によってこそ得られるものと説いた。とらわれのない無と不動の心、そして何事にも動じない冷静さ、これこそが闘いの奥義であり、そこに感情の入る余地はないのだ。」

ふつうの人なら動転して夜眠れなくなる出来事にも、プーチンは動じません。動じない理由について、オリバー・ストーン監督との対談で、やはりスポーツと軍隊で鍛錬したおかげだと言っています。

※管理人注:オリバー・ストーン監督の映画作品としては「プラトーン」などがあります。

※引用元:『オリバー・ストーン オン プーチン』 オリバー・ストーン、ウラジーミル・プーチン著  (文藝春秋) 引用文:37ページ

引用文:プーチン「(中略)午前四時に目覚めたことなどないよ。就寝は午前零時、起床は午前七時頃だ。いつも、六~七時間は眠っていた」
監督「すばらしい自己規律だな。悪夢を見たことは?」
プーチン「ないね」
監督「本当に? その自己規律は軍隊生活、つまりKGB勤務で身につけたものか。」
プーチン「スポーツと軍隊経験の両方だろう」
監督「それだけの自己規制、見上げたものだ。」
プーチン「結局そうしなければ、まともに働くことはできないからだ。自己規律がなければ、目の前の課題に立ち向かう強さが湧いてこない。戦略的課題などむろん、無理だ。常に健康でなければならない。」

※管理人注:会話のやりとりを理解しやすいように、発言の頭に発言者名を付けています。

プーチンは東ドイツのドレスデンへ赴任が決まる前にリュドミーラと結婚しました。友人であるロルドゥーギンから喜劇を皆で見に行こうと誘われたときに知り合った女性です。交際期間は三年ほどでした。     

※管理人注:引用文中のロルドゥーギンは、後年、プーチン大統領の裏金を租税回避地へ隠すのに協力した人物です(“パナマ文書”)。

プーチンが初めてリュドミーラと出会った日の様子に注目すべき点があります。次の回想は友人ロルドゥーギンによるものです。

※引用元:『プーチン、自らを語る』ナタリヤ・ゲヴォル・クヤン、ナタリア・チマコワ、アンドレイ・コレスニコフ著  高橋 則明訳  (扶桑社) 引用文:78ページ

引用文:「私たち(管理人注:ロルドゥーギンと女性2人)はジグリー(管理人注:ロルドゥーギンの自家用車)に乗りこんで、彼を待った。はじめのうちは、ひとつの車に彼女たちと座っているのはひどく落ち着かなかった。通りかかった友人たちに気づかれて、とてもばつが悪かった。私たちは1時間も待たされた。そのあいだ、私のおしゃべりで2人を疲れさせた。といっても、それは私の思いすごしかもしれないが。
そして、ようやくワロージャが現れた。そういえば、彼はいつも遅刻していたな。」
プーチンが悪びれることなく、平然と遅刻するのは少年時代からそうでした。自分を待ち続けている人たちのイライラに共感できないサイコパスの特徴があらわれています。
リュドミーラと交際を始めても、プーチンは遅刻をくりかえしました。

※引用元:『プーチン 生誕から大統領就任まで』  フィリップ・ショート著 山形 浩生, 守岡 桜訳  (白水社) 引用文A:113ペーシ、引用文B:113ページ

引用文A:「最悪だったのは、デートに出かけるたびにプーチンが遅刻したことだ。リュドミラは地下鉄の駅で待っていたことを回想している。「15分なら受け入れられます。30分でも。けれど1時間たっても来ないと、傷ついて泣けてくる。1時間半たつともう何も感じない。感情が尽きてしまって・・・・・・そんなことがしょっちゅうでした」。彼女をさらに苛立たせたのは、彼は仕事となると時間を守ったことだ。
自己中心的だというだけではなかった。別の何かが作用していた。プーチンはリュドミラに対して、ひどく配慮が欠けていた。わざとやってどこまで彼女が我慢できるか様子を見ているのではないかと思えるほどだった。だがリュドミラは別れず、いつか態度を改めるよう説き伏せられるのを期待していた。そんなことは起こらないとわかったのは、かなり後になってからだ。」

※管理人注:プーチン大統領は、中国の胡錦涛首席(当時)など、外国の要人を長い時間待たせたこともあります。

ちなみに、プーチンには、たやすく人を信用しないという面もありました。サイコパスは相手の気持ちを感じ取れない状態で人とつきあうので、「友情」を感じてくれている相手の気持ちを感じ取れず、「恋心」を感じてくれている相手の気持ちも感じ取れません。サイコパスの場合には、相手を信用してよいかどうか、自分が感じ取る相手の心情からではなく、これまでの相手の行動と性格傾向から慎重に判断するしかありません。

引用文B:「プーチンは異様なほど他人を信用しなかった。交際を始めた年、リュドミラは「いつも見られている感じがしました。私がどんな決断をするか、それが正しいかどうか、このテストには合格か、あのテストはどうかと」と回想している。」

※管理人注:引用文中の太字は管理人によるものです。

※引用元:『気になるあのニュースを大調査 STILLNESS』というWebサイト 

4-2 ドレスデン赴任中

プーチンは、1985年にドレスデンへ赴任しました。東欧の社会主義諸国が崩壊をはじめる4年前でした。
プーチンの気持ちとしては、待ちに待った初めての海外赴任なので高揚感があったと考えられます。悪の西側(資本主義諸国)から、善の東側(社会主義諸国)を守るために、スティルリッツのように「全軍をもってしても不可能なことが、たった一人の人間の活躍によって成し遂げられる」(3-4節からの再掲です)かもしれないから、KGBの指令を達成するために刻苦精励するのだ、と。
しかし、高揚感はまもなくしぼんでいったのかもしれません。

※引用元:『プーチンの世界』フィオナ・ヒル、クリフォード・G・ガディ著  畔蒜 泰助監修訳  (新潮社) 引用文:142ページ

引用文:「当時のKGBの業務において、人口50万人の東ドイツ第三の都市ドレスデンは大して重要な拠点ではなく、プーチンの仕事も大して重要なものではなかったようだ。さらに、大きな成果を挙げることさえできなかったという話も聞こえてくる。」

※引用元:『独裁者プーチン』 名越 健郎著  (文春新書)  引用文:62-63ページ

引用文:「ドイツの報道では、「プーチンはドレスデンで大した仕事をしていない。東独に留学する途上国の学生を西独でスパイに仕立てる任務などを負っていたが、二人しか見つけられなかった」(ツィツェロ紙)。
ロイター通信(01年2月27日)が報じた旧東独情報機関シュタージの機密文書によれば、シュタージは87年、KGBに対し、ドレスデンの東独共産党ゲストハウスの近くに住む男をエージェントにリクルートし、訪問客を監視させるよう要請した。KGBは「V・V・プーチン同志が任務に当たる」と回答した。KGBはしばらくしてシュタージに報告している。「任務は遂行できなかった」と。プーチンはしくじったようだ。」

※管理人注:引用文中の「シュタージ」は東独の秘密警察です。

プーチンの仕事ぶりについては、別の評価もありました。

※引用元:『プーチン 人間的考察』木村 汎著  ( 藤原書店) 引用箇所:160-188ページ

プーチンと共に東独ドレスデン・在ソ連領事館内の同一オフィスで、五歳年上だが同じ中佐として働いていたKGB仲間によれば、「当時のプーチンの表向きの肩書きは、ドレスデン、ライプチッヒ地区の「ソ独友好協会」の副会長だったが、実際にたずさわっていたのは次のような仕事だった。KGBとその東独カウンターパートである「シュタージ」(国家保安庁)とのあいだの連絡、東独内エージェント(諜報部員)のリクルート(勧誘)、政治機密情報の収集」である。
この人物は、プーチンが、東独市民をリクルートする名手だった、と言っています。

後年、プーチンの心理テクニックの高さについて述べている女性がいます。1998年12月、ロシアの『コメルサント』紙記者だったエレーナ・トレグボワは、FSB長官となっていたプーチンから寿司レストランへ誘われ、言い寄られた、と著書で暴露しました。そのときのプーチンの印象を”彼は反射するのが驚くほどうまい” と、述べています。

※引用元:『リトビネンコ暗殺』アレックス・ゴールドファーブ、マリーナ・リトビネンコ著 加賀山 卓朗訳 (早川書房) 引用文:252ページ

引用文:「トレグボワは、相手に波長を合わせるプーチンの能力に舌を巻いた。”彼は反射するのが驚くほどうまい” 鏡のように相手の行動をまね、自分を相手とそっくりの人間、つまり根っからの友人のように思わせる。」

※管理人注:暴露後に、トレグボワは職を失い、身の危険を感じてイギリスへ亡命するはめになりました。           

※引用元:「BBC NEWS JAPAN」のWebサイト 
※管理人注:ドレスデンで使用された旧東独シュタージ用身分証です。

結局のところ、プーチンの対人能力は、KGBの仕事よりも、むしろ、秘められた利己的な目的にこそ真価を発揮したと言えそうです。
たとえば、東独のドレスデン赴任中の仲間であった二人です。
一人目のセルゲイ・チェメゾフは、後年、プーチンによってロシア兵器の対外輸出を独占する「ロステフノロギー」の社長に据えられます。
二人目のニコライ・トカレフも、後年、プーチンによってロシア国営の石油パイプライン独占企業「トランスネフチ」の社長に据えられます。
これらの人事は、彼らをプーチンの秘密の目的に協力させるためです。プーチンが東独で培った人脈はまだまだあります。

※引用元:『クレムリンの殺人者』ジョン・スウィーニー著  土屋 京子訳  (朝日新聞出版) 引用文:67ページ

引用文:「プーチンはシュタージに有用な友人を何人か作った。そのうちの一人はマティアス・ワーニヒだろう。(中略)シュタージのスナップ写真には1989年に二人がそろってドレスデンの第一親衛戦車隊を視察する様子が写っている。(中略)ワーニヒは(中略)銀行家になり(中略)ノルドストリーム計画のドイツ側の代表になった。」 

※管理人注:引用文中の「ノルドストリーム」はロシア・ドイツ間の天然ガスパイプラインのことです。

これらのように、プーチンは、後年、柔道人脈でも、サンクトペテルブルク(旧名称はレニングラード)の人脈でも、KGBの人脈でも、仲間たちへ非常に高い収入が得られるポストを用意して就任させることになります。
このような人脈づくりの成果(プーチンの「成果」というよりも、ロシア国民にとっての「被害」という表現のほうが適切ですが)は、ベルリンの壁が崩壊して東独がなくなり、プーチンがサンクトペテルブルクへ戻って、市役所の仕事を引き受けた時に発覚する、”食糧スキャンダル”として初めて世の中へ姿をあらわしはじめます。そして、その後も、世界中を驚かせるスキャンダルへとつながっていきます。”パナマ文書”と”プーチン宮殿”です。  

ちなみに、ドレスデン時代には、次のような噂も存在しました。

※引用元:『独裁者プーチン』 名越 健郎著  (文春新書)  引用文:100ページ

引用文:「英紙デーリー・テレグラフ(11年11月2日)は、ドイツの公文書館で新たに発見された旧東独情報機関の機密文書として、リュドミラ夫人が80年代後半のドレスデン滞在中、親しくなった東独のロシア語通訳の女性に対し、自分の境遇に怒りを感じ、「夫の暴力や度重なる不倫に耐えられない」と告白していたと報じた。」
   

※管理人注:幼少期の娘を抱くプーチン氏(写真/アフロ) 引用元:『NEWSポストセブン』のWebサイト。

4-3 ペレストロイカ

プーチンが東独に赴任したのと同じ1985年、ゴルバチョフが54歳の若さでソ連の書記長に選ばれました。
ゴルバチョフ書記長は1986年2月からペレストロイカと呼ばれる改革を開始して、ソ連国内だけではなく、国外からも期待を集めました。
そんな矢先、1986年4月にチェルノブイリ原発事故が発生し、ゴルバチョフ書記長を筆頭にソ連政府は失態を演じます。原発事故が起きたにもかかわらず、現地当局は事故の深刻さを隠蔽して、ソ連共産党へ故意に報告をしなかったからです。スウェーデン側から異常放射能の指摘を受けるまで、事故の甚大な影響をゴルバチョフは知ることができませんでした。

※参考文献:「チェルノブイリ原発事故とヨーロッパの放射能汚染」西脇 安著  

※引用元:「NHK」のWebサイト

これを教訓としてゴルバチョフは、グラスノスチ(情報公開)を開始する決断をしました。  このグラスノスチがきっかけとなり、ソ連で70年以上封印されてきたパンドラの箱が開かれることとなりました。 

※引用元:『ソ連のマフィア』アンドレイ・イレッシュ著  鈴木 康雄訳  (読売新聞社) 引用文:2-3ページ

引用文:「グラスノスチの結果、犯罪統計、具体的な犯罪事実、党・政府関係者、警官、検察官の汚職、ソ連の最高指導部の収賄—が史上初めて国民に明らかにされた(中略)ソ連社会は高度の”犯罪汚染社会”であるという構図が明白になったのだ。」  

ゴルバチョフは次々に情報を公開しました。

※引用元:『マフィアと官僚』スティーヴン・ハンデルマン著  柴田 裕之訳  (白水社) 引用文:80ページ

引用文:「ソビエト共産党の指導者としては初めて、闇経済の規模の推定を公にした。彼は1987年6月15日の演説の中で、闇市場の年間取引高は15億ルーブル(当時の為替レートで20億ドル弱)にのぼると主張した。国内の有識者のほとんどは、この数字は小さすぎると考えた。(中略)ゴルバチョフは、クレムリンの政治家としては前代未聞のことだが、上層部の汚職と闇市場の活況を結びつけもした。」

ゴルバチョフはさらに報告しました。

※引用元:『娼婦とマフィアのペレストロイカ』岩上安身、松原隆一郎著  (JICCブックレット) 引用文:71ペーシ

引用文:「消費市場の混乱がさらに進み、物不足と商店の前での行列が増え、ルーブルの購買力が減退していることを、われわれは目のあたりにしている。ヤミ経済にたかる者と犯罪分子の暗躍によって事態は悪化している。」 

※管理人注:この発言は、1990年2月のゴルバチョフによる報告です。

※引用元:『ロシア☆マフィアが世界を支配するとき』寺谷 弘壬著 (アスキーコミュニケーションズ)  参考箇所:14ページ 引用文:12-13ページ

しかし、腐敗しきったソ連では、ゴルバチョフの身辺ですら犯罪組織と無縁ではいられませんでした。ゴルバチョフのライサ夫人が創設したソ連邦「文化基金」のモスクワ支部長は、モスクワ最大のマフィア組織ソーンツェボ組の2代目親分ミハシ(本名S・ミハイロフ。1989年に2度目の刑務所入り)でした。ライサ夫人は知らないうちに関わっていたのです。

引用文:「ゴルバチョフは、このヤミ商売と、それに関連する賄賂や汚職を正そうとするが、それがために、逆に闇経済を牛耳っていたグルジア・マフィアから暗殺されそうになる。」

※管理人注:暗殺を指示したのは、マフィアのクゥチュウリ親分といわれています。ちなみに、クゥチュウリ親分が1982年に結婚式を挙げたときの仲人が当時グルジア党中央委員会第一書記・パチアシビリ(後のソ連邦外務大臣、シェワルナゼの後任)でした。

ヤミ経済を正すことができず、不正の横行を許し、物不足が深刻化するのをくい止められないまま、ソ連が秘密にしてきた悲惨な歴史も次々に暴かれていきました。
たとえば、スターリンの指示による粛清の大きさをソ連国民は知ることになりました。

※引用元:『スターリン』オレーク・V・ヴニューク著  石井 規衛訳  (白水社) 引用文:74-75ページ

引用文:「公式記録は1930年から1952年の間にほぼ80万人が銃殺されたことを示している。しかしながら、体制の様々な政策行動の結果死亡した人数は、はるかに多かったことだろう。スターリンの保安機構が死に至るほどの拷問の手法を頻繁に用いたり、強制労働収容所の内部の一般的条件が死の収容所と区別し難くなっていたことなどを思えば。1930年から1952年の間に、およそ2000万人が強制収容所、流刑地、監獄などに送り込まれる判決を受けた。同じ時期、600万人を下らない人々が、中でも「クラーク」(富農)や「抑圧された民族」のメンバーが、「行政追放」の対象となった。すなわちソ連邦の僻遠の地への強制移住である。もちろん銃殺されたり、収容所送りの憂き目に遭ったりした人々の間には、かなりの人数の通常の刑事犯が含まれていた。」

たった二、三頭の牛を所有しているだけで「クラーク」(富農)というレッテルを貼られ、ソ連共産党の敵として財産をすべて没収されて死んだ農民たちは、特にウクライナに集中しました。この悲劇は、「ホロドモール」と呼ばれ、語り継がれています。

※引用元:『ウクライナの夜』マーシ・ショア著、池田 年穂訳、(慶應義塾大学) 引用箇所:8ページ

引用文:「ソヴィエト・ウクライナでは、1932年から34年のあいだに、飢餓によって350万人以上の人びとが亡くなった。」

※引用元:「NHK」のWebサイト
※管理人注:ホロドモール時期の街の様子

※引用元:『悲しみの収穫』ロバート・コンクエスト著  白石 治朗訳  (東雅堂出版) 参考箇所:3と15ページ 引用文A:385ページ 引用文B:427ページ

引用文A:「ポルタヴァ州のカルシン村では妊娠七カ月の女性が、春の小麦をひきぬいたために逮捕され、板切れで打ちすえられ、まもなく死んだ。同州のビリスケ村では、夫が逮捕されたあと、三人の子供をかかえた母ナスチヤ・スリペンコが、夜、コルホーズのジャガイモを掘りだしていたところを武装した警備員に射殺された。残った三人の子供は餓死した。この州の別の村では、無一文の農民のせがれがコルホーズの畑でトウモロコシをひろい集めただけで、警備の「活動分子」に鞭で打たれて死んだ。」

引用文B:「自殺についても多数の報告があった。ほとんどいつも、首吊りであった。母たちは、しばしば子供の首をしめて、その悲惨な状態から子供を解放してやった。」「あるものは、気が狂った。・・・・・・死体を切りきざみ、料理するものや、自分の子供を殺し、食べるものもいた。」

ゴルバチョフの人気は、ソ連国外では2022年8月に亡くなるまで高いままでしたが、ソ連国内においてはさっぱりでした。改革がほとんど実を結ばないどころか、物不足はさらに悪化し、「世界一」いい国であったはずが、実は嘘で塗り固められた国民をあざむくダメな国でしかないとバラしてしまったからです。
ソ連国民にとって「世界一」の誇りはボロボロになってしまいました。

《4-3節のポイント》
●ソ連崩壊以来、ロシア人は「世界一」の威信を取りもどせる日を待ちわびるようになります。

第5章 サンクトペテルブルク

5-1 ベルリンの壁崩壊

東ドイツでは長い間、ソ連よりも商品が豊富にあり、機能的な箱型のアパート群に住むこともできました。政府が西側諸国からの債務を返済の見通しがないにもかかわらず増やしつづけ、国民に大盤振る舞いをしていたからです。しかし、1980年代にはいると、食糧事情と医療体制は急激に悪化し、環境破壊は耐えがたい状態にまで進んでいきました。もともと政治的自由を制限され、ベルリンの壁がつくられたことで西側にいる家族と離ればなれになった人々も大勢いましたから、東ドイツ国民の不満は高まる一方でした。
東ドイツ政府は、国民の不満を圧殺するために、シュタージと呼ばれる秘密警察をつかって厳重に監視していました。
シュタージは、監視の標的とした人びとの仕事先での人間関係を壊したり、さらに家族関係をも壊したり、標的と恋に落ちるフリをして標的と結婚するスパイ工作すらも行っていました。

※引用元:『東欧革命1989』ヴィクター・セベスチェン著、三浦 元博 , 山崎 博康訳 (白水社) 参考箇所:185ページ、引用文:182ページ

引用文:「標的とする(中略)個々人の「匂い」さえ収集した。全国の警察とシュタージのすべての取調室には、椅子のシートの上に特別な粘着性の気泡層が取り付けてあった。これによって、尋問に連れてこられた人びと全員の匂いが採集された。集められた匂いはガラス瓶に保存され、獲物を追跡する際、警察犬の支援に使われた。」

※引用元:『監視国家』アナ・ファンダー著、伊達 淳訳 (白水社) 引用文:15ページ

引用文:「シュタージが管理していた国民に関するファイルは、つなぎ合わせると180キロの長さに達したと言われている。」

プーチンは、ドレスデンで諜報活動をおこなう際、シュタージが集めた国民に関するファイルを重宝していました。
プーチンがドレスデンへ赴任した翌年以降、経済的に弱体化したソ連は、東ドイツを含む東欧の社会主義諸国に自立を求めはじめました。ゴルバチョフは、1986年に経済的支援の見直しを、1987年にはソ連軍を送って国内政治に干渉することはしない旨を、発表しました。

※引用元:『ベルリン1989』東ドイツの民主化を記録する会編 (大月書店) 引用箇所:17ページ

1988年、ソ連の情報公開からの影響を遮断するために、ソ連の月刊誌「スプートニク」が東ドイツで発売禁止となり、東ドイツ国民からは「盟友ソ連の雑誌まで発禁するなんて、頭でもおかしくなったのか」という意見が出はじめました。
1989年5月に東ドイツで行われた一斉地方選挙では、大がかりな不正が行なわれ、翌月、ベルリンで2000人が抗議行動をして400人が「反革命」を理由に逮捕されました。政治の動きを諜報していたプーチンも多忙になっていったと推測されます。
1989年8月にハンガリーがオーストリアとの国境を開放したので、東独から西独への出国が激増しました。
1989年10月、ドレスデンの西方約110キロにあるライプチッヒのデモが12万人に達し、以降、デモは東ドイツ全体に拡大していきました。

※引用元:「東ドイツの崩壊とハーシュマン理論」山川 雄巳著

引用文: 「ドレスデンでは、毎日のように一万規模の抗議デモが続き、駅近くの広場で座りこみが行なわれた。(中略)11月4日には、50万人規模の大デモがベルリンで行なわれるに至った。」

1989年11月9日深夜、東西ドイツを分断していたベルリンの壁はついに崩壊しました。ベルリンの壁は東西冷戦の象徴でした。             

※引用元:「NHK」のWebサイト

ベルリンの壁が崩壊したことにより、プーチンが勤めている東ドイツのドレスデンにあるKGBの建物を、群衆が取り囲む騒ぎになりました。

※引用元:『プーチン、自らを語る』ナタリヤ・ゲヴォル・クヤン、ナタリア・チマコワ、アンドレイ・コレスニコフ著  高橋 則明訳  (扶桑社) 引用文:103ページ

引用文:「群衆は攻撃的な雰囲気に満ちていた。私は駐留ソ連軍に電話をして事態を説明し、出動を要請した。しかし、彼らはこう言った。「我々はモスクワの命令がないかぎり何もできない。モスクワは何も言ってこない」彼らがようやくやってきたのは数時間後だった。そして、群衆は解散した。しかし「モスクワは何も言ってこない」という返事で、私はソ連も長くないと感じた。」

※管理人注:プーチンが勤めていたドレスデンのKGBの近くにあったシュタージの建物前でシュプレヒコールを上げる東ドイツ市民。引用元:「NHK」のWebサイト

ベルリンの壁崩壊後、東ドイツ旧指導部の腐敗が次々に暴かれていきました。

※引用元:『ベルリン1989』東ドイツの民主化を記録する会編 (大月書店) 引用AとBの引用ページ:巻末年表4ページ゙

引用文A:「ベルリン北部の幹部専用住宅地ヴァントリッジが、初めて報道陣に公開され、国民生活から大きくかけ離れた幹部の贅沢三昧ぶりに、国民的怒りが爆発。SED中央統制委員会、ミタークの除名とホーネッカーの査問委員会喚問決定を発表。」

※管理人注:この発表は1989年11月23日に行なわれました。「ホーネッカー」は東ドイツの社会主義統一党(略称SED。ソ連でいえばソ連共産党に相当する)の第一書記(1971~89)でした。

引用文B:「汚職腐敗調査委員会の報告で、ティッシュ(元自由ドイツ労働組合総同盟委員長)、ミタークならびに、武器密輸による外貨荒稼ぎで蓄財を重ねていた貿易次官シャルク=ゴロトフスキーら旧幹部の犯罪行為が明るみに出される。」 

※管理人注:この報告は1989年12月1日に行なわれました。

長年にわたる贅沢や不正蓄財を知り、東ドイツ国民は騙されていたことに憤激しました。国民が怒る様子に、不正の誘惑に負けた官僚たちは震え上がりました。
1989年12月には、ルーマニアでも革命が起きます。国民に困窮生活を強要してきたチャウシェスク大統領は、豪邸の様子が一般公開され、わずか45分間の軍事裁判のあとで銃殺刑になりました。
プーチンは、東欧の社会主義体制が次々に崩壊していく事態を見て、とてつもなく大きな衝撃を受けました。
プーチンがソ連(そしてKGB)で学んできたことは、こうでした―西側は強欲な資本家が支配して労働者を搾取しているので悪だ。東側はマルクス主義が必然的に到来すると論じる理想的な共産主義社会へ向かいながら、西側からの妨害と闘っているので善だ。

※次の段落から5-1節の最後までは、当サイトが当時のプーチンの心理を推測した仮説になります。

プーチンが少年時代から夢見ていたことは、こうでした―悪の西側から、善の東側を守るために、「全軍をもってしても不可能なことが、たった一人の人間の活躍によって成し遂げられる」(管理人注:3-4節からの再掲です)かもしれないから、KGBの指令を達成するために刻苦精励するのだ、と。
しかし、現実はまったく違いました。共産主義社会は到来しません。むしろ、社会主義社会は、到来するはずもない虚偽の理想を人民に信じこませ、〈利口な特権階級〉が〈マヌケな一般市民〉から国の富をかすめ取る社会に過ぎないのではないか、それでは、西側の社会とまったく同じではないか、と。

しかし、世界中の人びとは、こう思います。長いあいだ抑圧されてきた多くの人びとが解放されたから、これは20世紀最大の喜びだ。歓喜に沸き立つ人びとに共感し、抑圧という非人間的行為が終焉するのは素晴らしいことだ、とふつうに考えるのです。
しかし、サイコパスであるプーチンにとっては、大きな悲劇でしかありえません。なぜなら、サイコパスには共感する能力が欠けているからです。大勢の人々の喜びへ共感できません。
プーチンは、自分が努力してきたことが無意味になる、自分が活躍するはずの世界がなくなる、さらには、KGBの仕事を失うかもしれない、これは悲劇だ、とショックを受けるばかりでした。
平和な社会には、共感と良心にもとづく協力が土台にあります。しかし、サイコパスであるプーチンにとっては、共感も良心も頭では理解できるものの、心そのもの(感情とも言い換えられます)は何も感じないので、共感と良心は、プーチンにとってはどうでもよいことなのです。
今や、プーチンの目の前に見えるものは、〈利口な特権階級〉と〈マヌケな一般市民〉との対立の構図でしかありません。
プーチンの眼からは、自分ならどちらの側に立つのか、二者択一の選択に見えてしまいます。東ドイツで発覚した不正の数々を知って、考えます。負け犬はイヤだ。「勝ちたければ、どんな戦いでも最終決戦のつもりで最後まで戦い抜く」(管理人注:3-2節からの再掲です)しかない。
そうだ、自分なら最後までもっと上手に騙せるぞ。これからは自分が〈利口な特権階級〉になってやろう! 

※管理人注:以上の「価値観の逆転」説は、当時のプーチンの主観内容を当サイトが推測した仮説です。
※管理人注:「〈利口な特権階級〉と〈マヌケな一般市民〉との対立の構図」そして「西側の社会とまったく同じ」という概念は、プーチンの主観にしかない概念として、当サイトは仮説の中で使っています。

《5-1節のポイント》
●プーチンは、東ドイツの指導者たちが、長年にわたって国民を騙し、私腹を肥やしていた様子を、KGB諜報員の立場から眺めつづけます。その過程で価値観の逆転が起き、ケース・スタディとして、彼らの失敗から不正蓄財の方法を学び取った可能性が十分に考えられます。

5-2 サンクトペテルブルクに戻る

※引用元:『プーチン、自らを語る』ナタリヤ・ゲヴォル・クヤン、ナタリア・チマコワ、アンドレイ・コレスニコフ著  高橋 則明訳  (扶桑社) 引用文:110ページ

引用文:「1990年1月に私たちがドイツから戻ってきたとき、私はKGBに務めていたが、ひそかに代わりとなる計画を考えはじめていたのだ。私には子どもが二人いて、すべてを投げ出す余裕などなかった。ほかに何ができただろうか。」

※管理人注:引用文中の太字は管理人によるものです。

「ひそかに代わりとなる計画」とは、不正蓄財をさしている、と当サイトでは解釈します。

この時点でも、プーチンはまだKGBに勤務しており、平均的なソ連国民よりも高い給料を受け取っていました。

※引用元:『プーチン 人間的考察』木村 汎著  ( 藤原書店) 引用箇所:219ページ

引用文:「プーチンは、ドレスデンから帰国し、ペテルブルク国立大学副学長の対外関係補佐として働いていた。KGB関係者によってのみ占められるポストである。このことを知らぬ者は、ペテルブルクでおそらく一人もいなかったろう。」

※管理人注:引用文中にある「ペテルブルク」は、「サンクトペテルブルク」の略称であり、旧称は「レニングラード」です。

ちょうどこの頃、急進改革派としてソ連国民からたいへん人気があったサンクトペテルブルク大学法学部元教授アナトリー・サプチャークが、政治家としてサンクトペテルブルクへ戻ってきました。

※管理人注:サプチャークは、1989年3月に行なわれたソ連最初の民主的議会選挙で当選し、最高会議代議員にも選出された経歴の持主です。

サプチャークは、1990年5月にサンクトペテルブルクのソビエト議長に選出された後、プーチンを顧問として採用しました。つまり、プーチンは転職をしました。サプチャークはこの後、プーチンらのサポートでサンクトペテルブルク市長選に当選し、サンクトペテルブルク市長になりました。  プーチンはKGB職員のままでしたので、サプチャークをサポートするまでは、KGBの指示でいろいろな動きをしていました。

※引用元:『プーチン ロシアを乗っ取ったKGBたち 上』キャサリン・ベルト著、(日本経済新聞社) 引用文A:59-60ページ 引用文B:60ペーシ 引用文C:61ページ

引用文A:「民主化運動の最も強硬なリーダーの一人で、新たに選出された人民代議員大会の勇猛果敢なメンバー、ガリーナ・スタロヴォイトワに近づいた。(中略)だが、スタロヴォイトワはそのような一方的なアプローチを怪しんで、その申し出をきっぱり断ったようだ。(中略)アナトリー・サプチャークは(中略)五月には市議会議長に任命されていた。それからほとんど間を置かずに、プーチンはサプチャークの右腕に任命された。」

引用文B:「プーチンはサプチャークの黒幕である情報機関との連絡役、舞台裏で彼の面倒を見る影の存在になることになっていた。この任命は最初からKGBによって取り決められていた。「プーチンはそこに配属されたんだ。彼には果たすべき役目があった」と、ドイツの安全保障コンサルタントで後にプーチンと協力したフランツ・セデルマイヤーは言った。」

引用文C:「サプチャークは、支配階層の一部から支援を受けなければ政治的な力を強化できないことをわかりすぎるほどわかっていた。彼は見栄っ張りで気取り屋で、何よりも上昇志向が強かった。」

※管理人注:引用文中にある「サプチャークの黒幕である情報機関」「支配階層の一部」とは、ソ連共産党の組織であるKGBのことです。

※引用元:『プーチンの世界』フィオナ・ヒル、クリフォード・G・ガディ著 、畔蒜泰助監修訳  (新潮社) 引用文:25ページ

引用文:「プーチンの尽力によってサプチャークは市長選を見事に乗り切り、初めて民主的に選出されたサンクトペテルブルク市長となった。


※引用元:『プーチン 人間的考察』木村 汎著  ( 藤原書店) 引用箇所:225-226ページ

引用文:「プーチンが最初ペテルブルク市役所に入ったとき、彼のポストはサプチャク市長の顧問という肩書きに過ぎなかった。だが彼は、1991年8月には対外関係委員会の議長、92年初めからは同委員会議長も兼任する副市長、94年3月からは第一副市長へと昇格した。サプチャク市長下にはプーチンのほかに、二人の第一副市長がいた。(中略)ところが、サプチャク市長の外遊—彼はしばしばおこなった—中に市長代行役をつとめたのは、プーチンにほかならなかった。その意味で、プーチンは「第一副市長のなかでも筆頭格」の扱いをうけていたことになる。」
サプチャーク市長は外遊中にプーチンへ白紙委任状を手渡すほどでした。

※管理人注:サンクトペテルブルクで副市長をしていた頃のプーチン。引用元:『NHK』のWebサイト

5-3 食糧スキャンダル

※引用元:『クレムリンの殺人者』ジョン・スウィーニー著  土屋 京子訳  (朝日新聞出版) 引用文:74ページ 

引用:「プーチンはひそかに昔の柔道のコーチだったレオ・”スポーツマン”の仲間たちとの関係を復活させていた。ロシア・マフィアである。(中略)要するに、副市長プーチンは金と引き換えに免許や許可や事務手続きなどをビジネスマン(ほとんどの場合ロシア・マフィアとつながっている)に売ることで、自由な商取引を禁止・制限するソヴィエト流の厳格な規則や規制をかいくぐってボロ儲けを可能にしてやっていたのだ。つまり、サプチャークがサンクトペテルブルクを自由化していくまさにその裏側で、副市長プーチンは法の規制をくぐり抜けてロシア・マフィアと自分自身とサプチャークに富をもたらしていた。」

※管理人:「レオ・”スポーツマン”」とは、3-4節に登場した、通貨偽造と輪姦の前科二犯で20年近く服役していたレオニード・ウスヴャツォフのことです。

管理人注:ロシア・マフィアの写真サンプルです。引用元:『HOMIE BLOG.』のWebサイト。

小さな犯罪だけではありませんでした。(ドイツ検察当局の捜索は2000年から開始ですから大統領就任後ですが)次もプーチン副市長時代の疑惑です。

※引用元:『独裁者プーチン』名越 健郎著  (文春新書) 引用文:67ページ

引用文:「プーチンが顧問を務めたペテルブルクの不動産会社がロシアとドイツで資金洗浄をしていた疑惑で、ドイツ検察当局は2000年に不動産会社を捜索した。同社はロシアのマフィア組織やコロンビアの麻薬密売組織の資金を洗浄していたことが判明。ドイツで盛んに報道され、プーチンが同社社長と親しいことも分かった。プーチンと闇組織の関係を示唆しているが、これも真相はうやむやのままだ。」

この麻薬密売組織の資金洗浄疑惑に関しては、「タンボフ」と呼ばれるロシア・マフィアとプーチンとの関係について具体的な証言が残っています。

※引用元:『プーチン ロシアを乗っ取ったKGBたち 上』キャサリン・ベルト著、(日本経済新聞社) 引用文:132ページ

引用文:「サンクトペテルブルク市政府がタンボフと築いた協力関係は、市のインフラに深く埋め込まれた。市政府のプーチンの仲間たちの支援を受けて、港湾はコロンビアから西欧諸国にドラッグを密輸するための重要な拠点になったと、元KGB将校ユーリ・シュヴェッツは後にロンドンの裁判所で証言した。」

次に説明をするのは、1991年にソ連で生じた深刻な食糧難を解決するため、ソ連に豊富にある地下資源を外国の食糧と交換して国民を救おうとした中で、起きた事件です。
サンクトペテルブルクでも深刻な食糧難が発生しました。飢餓状態へ陥りそうな市民を救うのに使われるはずだった大切なお金が、どこかへなくなってしまう事件が発生したのです。これを当サイトでは「食糧スキャンダル」と呼ぶことにします。

※引用元:『FP』というWebサイト

※引用元:『KGB帝国』エレーヌ・ブラン著、 森山 隆訳  (創元社) 引用文:158-159ページ

引用文:「プーチンの運営に対するもっとも重大な非難は、1991年12月に起こった事件に関するものだった。プーチンはロシア政府に1億2200万ドル相当の石油と非鉄金属の輸出枠を申請した。それと引き替えに、食糧難を緩和するため食糧輸入を実施することになっていた。このバーター契約は大失敗に終わった。輸入できたのは貨物船二隻分の食用油だけだったのだ。この詐欺事件の影響を究明するために調査委員会が設置され、プーチンは裁判に巻き込まれかけた。しかし、市長が介入し、問題は市当局との契約を守らなかった業者の責任だったとして片づけられた」

※引用元:『プーチンの世界』フィオナ・ヒル、クリフォード・G・ガディ著  畔蒜 泰助監修訳  (新潮社) 引用文:196-197ページ

引用文:「サプチャーク市長は会計検査院副議長ユーリ・ボルドィレフに圧力をかけ、この件を深く追求させないようにした。(中略)当時のプーチンの背後には、サンクトペテルブルク市当局の三人の有力者がいたという。その役人たちは、サーリエの報告書やサンクトペテルブルク市が用意した資料を確認したうえで、プーチンの行動に不適切な点は見当たらなかったと結論づけた。その三人とは? 保安・内務省サンクトペテルブルク市・レニングラード州局長セルゲイ・ステパーシン、副局長ヴィクトル・チェルケソフ、サンクトペテルブルク保安当局の職員だったニコライ・パトルシェフだ。」

※管理人:「サーリエ」とは、食糧スキャンダルでプーチン批判の急先鋒になったサンクトペテルブルク市議会議員です。

プーチンの背後にいた三人は、後年、クレムリンで出世をしていきます。
事件の背後には、プーチンの隠された人脈の協力が、まだまだあったのです。

※引用元:『プーチン 生誕から大統領就任まで』  フィリップ・ショート著 山形 浩生, 守岡 桜訳  (白水社) 引用文:202ページ

引用文:「選ばれた企業はまったく経験がなく、少なくとも一部はプーチン自身か、市役所の役員と特権的なつながりを持っていた。多くの場合、ロシアにはどん底価格しか支払わず、その財を西側に持っていけば、何十倍、何百倍もの値段で売れた。ある企業ジコップ社は、プーチンの元大学同級生イルハム・ラヒモフの兄が部分的に所有しており、遷移金属ニオブを世界市場の7分の1、イットリウムを20分の1、スカンジウムを2000分の1近くで(管理人補記:ロシアから)買う契約をしていた。」  

他にも、事件当時、ソ連対外貿易省のレニングラード代表部につとめていたゲンナージイ・ティムチェンコがいます。彼の場合は、こうです。

※引用元:『プーチン 人間的考察』木村 汎著  ( 藤原書店) 引用文:135、参考箇所:135-137ページ

引用文:「ソ連時代末に対外貿易が自由化されたことをいち早く利用して、レニングラード州のキリシ市で石油輸出企業「キリシ・ネフテヒム・エクスポルト(略称、「キネックス」)社を創設した。1991年ソ連を襲った食糧危機のさい、キネックス社はレニングラード市から原油を海外へ輸出し、同市はそれと交換の形で市民の飢えを満たす食糧を受け取ることになった。」
結局、食糧はサンクトペテルブルクへほとんど届きませんでした。後年、ティムチェンコはプーチン大統領が名誉館長を務める柔道の「やわら–ネヴァ」クラブの創設者、兼大口寄付者のひとりとなりました。ティムチェンコの資産は、2014年版『フォーブス』誌によると153億ドルにまで膨れあがっていったのです!!
サンクトペテルブルク市民にとって不幸中の幸いであったのは―首謀者にとっては、やや残念だったことになりますが—被害はある程度食い止められたということです。

※引用元:『プーチン 生誕から大統領就任まで』  フィリップ・ショート著 山形 浩生, 守岡 桜訳  (白水社) 引用文:208ページ

引用文:「関与した実業家の一部は、確かに大儲けしたし、市長室の一部高官は恩恵を受けた。だが関税局が最初の積み荷以外はすべ阻止したので、最終的に関係した金額は当初の報告額よりはるかに小さかった。」    

《5-3節のポイント》
●プーチンは、副市長時代の経験から、市民や議会などを騙して私腹を肥やすには、より慎重に、第三者の調査が困難になるような複雑なスキームを使わなければダメだ、ということを学び取ったと考えられます。

5-4 ソ連崩壊

プーチンがサンクトペテルブルクで食糧スキャンダルを起こしている頃、ソ連の体制はすでに崩壊に向かっていました。
1991年8月、保守派がソ連共産党の一党支配体制を守るためにクーデターを起こしましたが失敗。ソ連のロシア共和国大統領エリツィンは、クーデターの最中、戦車の上で演説をおこなったパフォーマンスによって国民の求心力を増しました。
同年12月、ソ連邦は崩壊し、ゴルバチョフ大統領は辞任。ウクライナやベラルーシなどの旧ソ連圏の国々はこのとき、独立国となりました。
ロシア連邦は、旧ソ連の国連における地位を承継した後、大きな苦難に見舞われました。

※引用元:『プーチンの世界』フィオナ・ヒル、クリフォード・G・ガディ著 、畔蒜泰助監修訳  (新潮社) 引用文A:44-45ページ 引用文B:52ページ

引用文A:「1992年1月1日、エリツィン大統領は、ソ連時代から停滞が続くロシア経済を現代的な市場経済に変えるべく、大胆な経済改革を始めた。「ショック療法」と称されたその方策は(中略)中央集権的な製造や生産の廃止、国営企業の民営化、価格の速やかな自由化、財政バランスを回復するための大胆な予算削減などだ。(中略)訪れたのは急激なインフレだった。1993年の一年間、物価は月平均20パーセントずつ上昇しつづけた。年間インフレ率は、92年に2500パーセント、93年に840パーセント、94年に215パーセント、95年に131パーセントにおよんだ。(中略)徹底的に批判したのは、ロシア議会や産業界の保守勢力、つまり旧ソ連式のビジネスに既得権益を持つ人々だった。」

独立宣言をしたチェチェン共和国とロシア連邦とのあいだで紛争も起きました。

引用文B:「1994年12月、ロシア政府はチェチェンに大規模な軍事攻撃をしかけた。その軍事攻撃は、第二次世界大戦以降ロシア本土で行なわれた最大の軍事活動にまで拡大。民間人を含めた多くの犠牲者を出しながら、チェチェンの主要都市グロズヌイをほぼ壊滅状態に追い込んだ。」

ロシア国民のほとんどは、経済危機とチェチェン紛争の中、ゴルバチョフ時代以上に塗炭の苦しみを味わう羽目になったのです。

第6章 クレムリン

6-1 ロシアの人びと

※参考文献:『オリガ・モリソヴナの反語法』米原 万里著 (集英社文庫) 引用文:137ページ 参考箇所:159、256ページ

ハイパーインフレのためにルーブルの価値はタダ同然となり、ロシア国民は物々交換をはじめました。駅前は、「老若男女が手に手にさまざまなモノを持って突っ立っている。鍋、ソックス、ピクルス胡瓜の瓶詰め、子供服、レコード盤、本、運動靴、電球(中略)値段交渉する者もいれば、物々交換する者もいる」ありさまでした。  

※管理人注:1990年代のロシア国民の様子。引用元:『RUSSIA BEYOND』のWebサイト。

モスクワで乗客に危害を加えない安全なタクシーに乗るのは大変になりましたが、タクシー運転手側もまた、危害を加えられない乗客を乗せるのは大変になりました。
救急車もパトカーも、食べていくために白タクをはじめました。
エリツィン政権下で治安の悪化は恐るべき状況をつくりだし、ボディーガードが必要になりました。

※引用元『エルミタージュの緞帳』小林 和男著 (NHK出版) 引用文A:168ページ 引用文B:169ページ

引用文A:「ボディーガードの仕事は文字通り命をかけた仕事であり、その見返りとして支払われる手当は破格である。平均給与の何十倍もの金が払われ、今アフガニスタン帰還兵や元KGB職員がわが世の春を謳歌しているのである。」

引用文B:「国防省の武器売却にからむ汚職を追求していた若い新聞記者は、編集室で派手な爆破によって殺され、テレビ・コマーシャルの利権に手をつけようとした公共放送の会長は、就任三日後に頭に銃弾を射ちこまれて亡くなった。ロシアで第一号の合弁企業のホテル経営に投資したアメリカのビジネスマンは、経営をめぐる主導権争いで常に三人以上の武装したボディーガードをつけていたが、そのボディーガードに守られているとき、AK-47の銃弾を浴びて即死した。(中略)
国会議員も殺され、そのたびごとにエリツィン大統領は犯人をつかまえると約束する。しかしそれを聞く国民はせせら笑い、つかまりっこないという。そしてその通りつかまらない。殺人事件の97パーセントは未解決のまま(1995年の統計)で、これがまた殺人事件を誘発する原因になっている。」

※引用元:『マフィアと官僚』スティーヴン・ハンデルマン著  柴田 裕之訳  (白水社) 引用文:243ページ

引用文:「パベル・グラショフ国防相は、将軍多数を含む軍幹部46人が汚職の科で軍法会議にかけられることになった、と国営テレビで発表した。それに加えて将校3000人が、武器の密輸から軍装備の闇販売にいたるまで、様々な「非合法ビジネス取引」ですでに懲戒処分になったことを明らかにした。」

※管理人注:国営テレビ発表は、1993年2月でした。

※引用元:『リモノフ』 エマニュエル・キャレール 著 土屋 良二訳 (中央公論新社) 引用文:291ページ

引用文:「金持ちは工業コンビナートや原料の鉱脈をめぐって殺し合い、貧乏人は売店や市場での出店場所のために殺し合った。どんなに小さな売店や出店場所にも、「屋根」が必要だった。「屋根」とは、無数にある警備業者のことで、こうした者たちは多かれ少なかれみな、ヤクザ企業だった。というのも、もし彼らの申し出を断ると、撃たれたからだ。」

ロシア国民が一番に望んだのは、生活の安定でした。つまり、経済的な安定と治安の安定です。
柔和な笑顔のゴルバチョフも、威勢よくパフォーマンスをするエリツィンも、ともに肝心な実行力が乏しく、生活は不安定なままでした。

《6-1節のポイント》
●1990年代の大混乱の中、ロシア国民にとって、なによりも必要だったのは、生活の安定です。ロシア国民は生活の安定を実現してくれる「強い指導者」を待ち望みます。

6-2 プーチン、クレムリンへ

1996年6月、サプチャークがサンクトペテルブルク市長再選に失敗し、プーチンは失業しました。ソ連がすでに崩壊していたので、KGB職員としての給料はとうになくなっていました。
そんな矢先、1996年8月、プーチンはモスクワで大統領府総務局次長のポストへすぐに就くことができました。

※引用元:『プーチン ロシアを乗っ取ったKGBたち 上』キャサリン・ベルト著、(日本経済新聞社) 引用文:142-143ページ

引用文:「すぐにモスクワに呼ばれ、最初は大統領府副長官という名誉ある地位につくよう要請された。その過程で彼を支援したのがアレクセイ・ボリシャコフだった。レニングラードの国防関連機関の大物で、おそらくKGB出身のボリシャコフは、どういうわけかエリツィン政権の副首相になっていたのである。
プーチンの副長官任命は、エリツィンの新しい大統領府長官になっていた西側寄りの民営化の帝王アナトリー・チュバイスによって突然、阻止されたが、プーチンは見捨てられはしなかった。代わりに、大統領府の伝説的な在外資産管理局のトップになるよう要請されたのだ。」

※引用元:『プーチンと蘇るロシア』ミヒャエル・シュテルマー著、池田 義郎訳、(白水社) 参考箇所:53-62ページ 引用文A:55-56ページ 引用文B:56ページ

ロシア国外の78カ国にあるロシアの国有財産を監督したプーチンは、管理能力を高く評価されました。
さらにプーチンは、上司へ忠実で、権力亡者とは見なされないように上手に振る舞い、自ら派閥に属することもしませんでした。派閥に属さないことにより、クレムリン内で権力闘争が引き金となった汚職事件の告発にもかかわらずに済んだのです。クレムリンの中にいて汚職にかかわらないのは非常に珍しいことでした。サンクトペテルブルク時代の食糧スキャンダルを教訓にして、プーチンは慎重にふるまっていたと考えられます。
1997年3月、プーチンは、大統領監督総局局長に任命されました。

引用文A:「いまや彼は、クレムリンの権力の階梯に座を占める、20の局長の一人であった。一匹狼であり、目立たず、聡明で、なくてはならない存在であり、有能で、非常にスマートであった。いまや彼は、クレムリンの奥に広がる陰謀世界について、知るべきほどのことはすべて知っていたが、同時にそこからは少し距離を置いていた。」

引用文B:「プーチンはあらたな仕事を任された。組織犯罪、とくに大規模な金融犯罪を取り締まるため、エリツィンは安全保障会議のもとに委員会を設置した。(中略)プーチンに課されたのは、ソ連時代の生き残りである最有力軍事企業のあやしげな取引を調査することであった。(中略)軍事企業の重役たちがアルメニアに武器を密売しており、兵士に支払うべき巨額の給料も着服していることを、プーチンは明らかにした(中略)彼の作成した秘密報告の中身はじきに知れ渡ることになった。組織犯罪の取り締まりにかかわれば、厄介なことが増すだけであったし、危険やストレスも少なくなかった。数年後に彼自身がほのめかしたところでは、少しの間プーチンはクレムリンの職を去って、ロシアへの直接投資を希望する外国人向けのコンサルタント会社を設立しようと考えたこともあったらしい。」

それは、マフィアの権益を侵したことで、妻のリュドミーラが死にかけたことがあったからでした。

※引用元:『独裁者プーチン』名越 健郎著  (文春新書) 引用文:67-68ページ

引用文:「プーチンは[管理人補記:サンクトペテルブルク]市の財政好転のため、ギャンブル産業の掌握を図り、カジノの公有化を推進した。市が51%株式を保有するギャンブル産業の持ち株会社も作ったが、これが業者の反発を買い、敵を作った。
94年、リュドミラ・プーチン夫人が娘を乗せて市内を運転中、交通事故に遭い、重症を負った。交差点で一台の車が赤信号を無視し、猛スピードで横腹に追突したという。リュドミラは背骨を損傷し、全快まで数年を要した。
状況から見て、暗殺計画だった可能性が強い。(中略)
プーチンはその後、ベッドの横に空気銃を置いて寝たという。」

結局、プーチンはクレムリンでの仕事を続けました。
1998年5月、プーチンは大統領府第一副長官に就任。シベリア鉄道を封鎖して給料支払いを求めていた炭鉱ストの調停に成功しました。
プーチンは、大統領府総務局次長にはじまり、大統領府第一副長官まで、そのときどきのポストに応じて、自分が有能であることをエリツィンとエリツィンの取り巻きたちへアピールすることに成功しました。
1998年7月、プーチンは、FSB(連邦保安局)長官に就任しました。     

※管理人注:「FSB」は、KGBの後継組織です。

6-3 後継者選び

1998年、入退院をくりかえす病身のエリツィン大統領は後継者選びをしますが、ロシア経済が危機的な状況にあるため、後継者選びは難航しました。
ロシアは豊富な地下資源の輸出に頼らざるを得ない発展途上国です。特に、石油の輸出がカギになります。
ところが、石油価格は下落を続け、ロシア国債の総額は2000億ドルに達し、その結果、国家予算の44パーセントをその利息支払いへあてざるをえないありさまでした。
1998年、ロシアのキリエンコ首相は、対外債務の90日間の支払停止を宣言。ロシア国民は、預金を急いで下ろそうと銀行へ押し寄せました。
1998年8月末にエリツィン大統領は若いキリエンコを解任し、キリエンコの直前に首相を務めていたチェルノムイルジン(キリエンコは1998年3~8月の間しか首相でいられませんでした)を再び首相に据えようとします。この時点で、後継者レースからキリエンコが脱落しました。
ところが、ロシアの議会はチェルノムイルジンの自身2度目の首相承認を否決したのです。
エリツィンはやむなく、中東でKGBの駐在員をしていた経験をもつエヴゲーニー・プリマコフ外相を首相にしました。
プリマコフは、エリツィンの座をねらうモスクワ市長ユーリ・ルシコフに近い共産党寄りの人物であり、エリツィンにとっては、もともと後継者候補ではありませんでした。

この時点で、プーチンがどのように政治的な動きをしていたのかを、まとめます。
プーチンは1998年7月にFSB長官になった後、総勢6000人のFSB中央機構で、少なくとも三分の一の人員整理を行ない、それとは別に多くの人員を地方勤務に送ることに成功しました。

※引用元:『プーチン 生誕から大統領就任まで』  フィリップ・ショート著 山形 浩生, 守岡 桜訳  (白水社) 引用文:335-336ページ

 FSBは、その前身であるソ連のKGB時代にスターリンの大粛清へ加担した組織なので、三分の一の人員整理をやり遂げたことは、クレムリン内で驚きとともに尊敬を勝ちえました。ロシアの政治学者であるグレープ・パヴロフスキーは次のように述べています。

引用文:「これまでみんな怖がって、だれもやったことがないことだった。そしてそれがエリツィンにはお気に召した」

※管理人注:これはエリツィンへのアピールとして有効ですが、サイコパスだからこそ、冷徹にできたことと考えられます。
※管理人注:引用文中の太字は管理人によるものです。 

自分に反対する者たち、自分をないがしろにしようとする者たちをリストラした以外にも、プーチンはFSBを変えました。

※引用元:『プーチンと蘇るロシア』ミヒャエル・シュテルマー著、池田 義郎訳、(白水社) 引用文:63ページ

引用文:「プーチンは、FSBの改組に乗り出した。サンクト・ペテルブルク出身の旧友をより多くの幹部ポストにつけるとともに、プリマコフ派の人々を隅に追いやり、大統領府時代につくり始めたネットワークをいっそう拡大した。たとえばヴィクトル・チェルケーソフ中将は、サンクト・ペテルブルク時代の大学仲間であり、少年時代からの友人であった。KGBでプーチンと似たキャリアをたどったチェルケーソフは、FSB長官代理に任命され、経済犯罪部門を任されたのである。
セルゲイ・イワノフもまた、元KGB中将であるとともに、サンクト・ペテルブルクの出身であった。彼は分析・戦略部門を任された。」 

※管理人注:引用文中の太字は管理人によるものです。

プーチンは、FSBの上層部へ協力者をたくさん送り込むことで、後々、さまざまな陰謀をおこなう強力な部隊へと変えることができました。
一方では、FSB長官プーチンは1998年12月、『コメルサント』紙記者だったエレーナ・トレグボワを寿司レストランへ誘って、言い寄ったりもしていました。これは4-3節で触れたとおりです。

FSB長官プーチンは、深謀遠慮の上で、したたかなこともしていました。

※引用元:『プーチンの世界』フィオナ・ヒル、クリフォード・G・ガディ著 、畔蒜泰助監修訳  (新潮社) 引用文:157-158ページ

引用文:「FSB長官だったプーチンは、その政治家(管理人注:将来、自身の政敵になる有名な政治家)の汚職スキャンダルの資料を集めるように上司から命令された。その政治家とはいっさいの個人的関係がなかったにもかかわらず、彼は上司の命令を密かに無視して相手をスキャンダルから救った。その話をあとで知った政治家は仰天した。のちにプーチンに感謝する機会が巡ってきたとき、リスクを冒してまで自分を救ってくれた理由を尋ねた。プーチンは肩をすくめてぼそっと言った。「誰があとで偉くなるかなんてわからないからね」。さまざまな手段を使って相手に貸しを作る、それがプーチンのやり方なのだ。

※管理人注:引用文中の太字は管理人によるものです。

プーチンは、エリツィンとそのファミリーを汚職疑惑から救い出すこともしていました。

※引用元:『独裁者プーチン』名越 健郎著  (文春新書) 引用文:70ページ

引用文:「FSB長官時代の99年3月、プーチンがエリツィン大統領の娘タチヤナや夫のユマシェフら「ファミリー」の窮地を救ったのは、有名なエピソードだ。
ファミリーの汚職疑惑捜査を陣頭指揮したスクラトフ検事総長によく似た男が、売春婦二人と性的関係を持っている盗撮ビデオがテレビで放映された。プーチン長官は「鑑定の結果、男が検事総長であることが確認された」と発表。検事総長は退陣に追い込まれ、ファミリーは危機を脱したのである。」

6-4 ロシア国民とオリガルヒ

※参考文献:『現代ロシア人の意識構造』五十嵐 徳子著 (大阪大学出版局) 引用文(上):57・62ページ 引用文(下):82ページ

 1990年に全ロ世論調査センターがおこなった調査では、資本主義的な要素をもつ国家システムを望む者は三分の一程度しかいませんでしたが、1994年に天理大学の五十嵐 徳子教授がおこなった現地調査では、市場経済を望む者は約半分に伸びていました。
インフレは進行したものの、物不足が解消したことが大きかったのです。インフレのただ中にあっても、将来への希望を感じはじめていました。
具体的には、市場経済で失業するのは怖いし、世間の拝金主義はケシカランけれども、自由な行動が許され、努力しだいで成功できる社会には希望を持てると考えはじめたのです。
一方で、1994年の調査では、注目すべき結果がでていました。
「男女とも、その64%がソ連邦の崩壊を間違いであったと考えている」という結果が出たのです。それは、社会主義が望ましいからではなく、ソ連邦の領土のままで「連邦的な国家体制の維持が可能であったと考えている」ためでした。 

《6-4節のポイント》
●ロシア国民の64%は、ソ連の版図の維持を、ソ連崩壊直後から望んでいました。この過半数の気持ちは、プーチンが少しずつ失われたソ連の領土を取り戻そうと企むうえで、役立ちます。ネオナチから迫害されている同胞(ロシア人)を救ってあげよう、とロシア国民へ信じ込ませやすくなるからです。
 

さらに、1994年の時点で、今後のロシア社会の秩序を破綻させる傾向がすでに根づいていたことが、調査結果からわかりました。
ロシア人の若い世代ほど、社会的利益よりも個人的利益を追求する傾向が強まり、さらに、「生活が相対的に恵まれていると思われる高学歴者」ほど権利を主張して義務を果たさない傾向が強かったのです。
ソ連崩壊以降、経済倫理が欠如した、高学歴の若い世代の一部は、低学歴者たちと高齢者たちの反発をせせら笑うかのように、オリガルヒと呼ばれる新興財閥に成り上がって、ロシアの富を寡占しました。さらに、ロシア政界にも我が物顔で乗り込んでいきはじめました。1994年の調査には、ロシアにオリガルヒが誕生する下地が既にできあがっていたことが如実にあらわれています。ここで、社会的利益よりも個人的利益を追求し、権利を主張して義務を果たさない高学歴者の中にプーチンも含まれていることに注目してください。ベレゾフスキーのようなオリガルヒとプーチンとの共通点は、この点にあります。

※引用元:『現代ロシア経済』安達 祐子著 (名古屋大学出版会) 引用文:126ページ

引用文:「エリツィン時代、1996年当時、ボリス・ベレゾフスキーは、自分を含めたオリガルヒ7人組がロシア経済の半分を牛耳っていると豪語していた(7人とはベレゾフスキー、ウラジーミル・グシンスキー、ホドルコフスキー、ミハイル・フリードマン、ポターニン、アレクサンドル・スモレンスキー、ウラジーミル・ヴィノグラードフ)。」

6-5 プーチン、後継者へ

※引用元:『プーチンと蘇るロシア』ミヒャエル・シュテルマー著、池田 義郎訳、(白水社) 引用文(前):64-66ページ、引用文(後):69ページ

プリマコフ首相は、「国の財政をいくらか立て直し、インフレの亢進も抑え、若干の経済回復にも成功し、IМFからあらたな融資を獲得」することにも成功しました。プリマコフは、自ら大統領選への出馬に意欲的となり、ベレゾフスキーらオリガルヒとエリツィン・ファミリーの汚職を攻撃しました。ジュガーノフ率いる共産党も下院にエリツィン大統領の弾劾に打って出ました。しかし、FSB長官プーチンが、スクラートフ検事総長のスキャンダルでエリツィン大統領の応援をし、弾劾は僅差で否決されたのは、6-3節で説明したとおりです。結果、エリツィンは、プリマコフをにらみつけながら解任しました。
1999年5月、エリツィンはプリマコフの後任としてセルゲイ・ステパーシンを首相に任命しました。
ステパーシンは、サンクトペテルブルクでプーチンが食糧スキャンダルを起こした時の保安・内務省サンクトペテルブルク市・レニングラード州局長であり、5-3節で触れたとおり、プーチンの背後にいた人物3人のうちの一人です。
エリツィンはステパーシンを任命した後、煩悶します。モスクワ市長のルシコフ、首相時代に実績のあるプリマコフらの政敵がひしめく中、ステパーシンでは2000年の大統領選には勝てない、汚職問題という時限爆弾を抱えた自分と自分のファミリーを守ってくれる後継者がどうしても必要なのに、と。
そんな折、1999年8月7日、ロシアと紛争状態にあるチェチェンの反乱軍が隣国ダゲスタン共和国へ侵攻しました。

引用文(後):「気弱な人が出る幕ではなかった。クレムリンはステパーシンを解任した。彼の不徹底な危機管理は事態をますます悪化させるだけだったのである。1999年8月9日、ウラジーミル・プーチンが首相に任命された。」

ロシアは、8月下旬から9月にかけて、チェチェンに対して大規模な空爆を行い、続いて地上戦を開始しました。プーチンへの首相任命は、チェチェンとの紛争が再び激しくなる時期でした。

プーチンは、そうした最中であるにもかかわらず、首相に就任して間もなく、驚くべき行動をおこないました。

プーチンは、まず2年前の1997年、サンクトペテルブルク元市長サプチャークの汚職に関する調査が進んでいたので、かつて部下だった自分自身にも共犯としての影響が及ぶのを防ぐためか、あるいは、少年時代からの「恐ろしいくらいの忠誠を尽くす」習性がはたらいたためか、あるいは両方によるものなのか、サプチャークが飛行機でパリへ逃亡するのを自ら隠密に手伝っていました。
それから2年後、首相となったプーチンは、サプチャークの汚職に関する調査が依然として進んでいたので、その調査を棚上げにし、サプチャークが逃亡先のパリからロシアへ帰国できるようお膳立てをしたのです。
これはすぐに、エリツィンの知るところとなりました。しかし、エリツィンはプーチン首相の違法行為(プーチン自身は、サプチャークの海外逃亡と無関係だと終始シラを切りつづけました)を怒るどころか、逆に感銘を受けたのでした。すべてを失って刑務所に入るリスクがあるのにもかかわらず、上司を裏切らない、しかも自ら率先して手伝うことまでしたとは、何と上司に忠実な男か!!というわけです。

ちなみに、1999年から原油価格は徐々に上がり始めました。クレムリンをはじめ世界中は、この長期上昇傾向に気づいていませんでした。2000年の大統領選に当選した者こそは、たとえ誰であろうと、ロシア経済が石油や天然ガスなどの輸出で大幅に潤うので、将来、必然的にロシアの救世主扱いされうる!ことになります。ロシア国民はこの事実を知らずに、大統領選に当選した者を救世主扱いすることになってしまうのでした。

 ※引用元:「世界経済のネタ帳」

《6-5節のポイント》
●1999年から原油価格は長期上昇傾向にはいりました。2000年の大統領選は、たとえ誰が当選しようとも、これからロシア経済が石油や天然ガスなどの輸出で大幅に潤うので、労せずしてロシアの「救世主」扱いをされうる時期に当たっていたのです。

第7章 血塗られた大統領選

7-1 同情から敵意へ

エリツィンは結局、プーチンを後継者に選んで、1999年12月31日に辞任しました。
エリツィンへ忠誠を誓った男としてプーチンは後継者に選ばれたものの、プーチンはロシア国民にとっては無名に近い状態でした。したがって、2000年の大統領選に勝てる見込みは、この時点では、まったくありませんでした。

爆破事件が起きるまでは、ロシア国民は独立を宣言したチェチェンの人びとへ同情的でした。しかし、連続爆破事件の首謀者はチェチェン人であると、十分な証拠もなくロシア当局の発表が続くので、ロシア人はしだいにチェチェン人を憎むようになります。

※管理人注:相次いだ高層アパート爆破事件の現場例。引用元:『中日新聞』のWebサイト

※参考文献:『クレムリンの殺人者』ジョン・スウィーニー著  土屋 京子訳  (朝日新聞出版) 参考箇所:89-90ページ、引用文:91ページ

1999年9月にグリヤノフ通りのアパートが爆発して92人が死亡します。その4日後にはさらにカシルスコエ街道沿いのアパートが爆発して130人が死亡します。当局は両方ともチェチェン人ムヒト・ライパノフの犯行と発表したが、ライパノフは1999年前半の事件前に死亡していたことが判明しました。

引用文:「モスクワで二回目の爆弾事件が起こった9月13日、ロシア連邦議会下院議長ゲンナジー・セレズニョフは、三つ目の爆弾事件がロシア南部の都市ヴォルゴドンスクで起こったと発表した。ヴォルゴドンスクで爆弾事件が発生したことには間違いないが、実際に爆発があったのは発表から3日後のことだった。

※管理人注:引用文中の太字は、著者ではなく、管理人によるものです。

※引用元:『誓い』ハッサン・バイエフ著  天野 隆司訳  (アスペクト) 引用文:352ページ

引用文:「エリツィンが新しく任命した首相、ウラジーミル・プーチンはこう誓った。「われわれはテロリストをどこまでも追いつめる。下品な言葉を許していただきたいが、もしやつらをトイレの中で見つけたら、そいつを排泄物の中に叩きこみ、溺れ死にさせてやる!」(中略)第一次戦争中の雰囲気とは一変して、ロシアの国内世論はチェチェンに対する強硬路線を支持した。」

※管理人注:プーチンが「テロリスト」を便所でぶち殺す旨の発言をしたときの様子。引用元:『RUSSIA BEYOND』 

※引用元:『プーチニズム』アンナ・ポリトコフスカヤ著  鍛原 多恵子訳  (日本放送出版協会) 引用文:86ページ

引用文:「1999年、エリツィンがプーチンを後継者に指名した。第二次チェチェン戦争が始まった。プーチンはしょっちゅうテレビ出演していた。あるときは空軍の戦闘機に乗っていたかと思うと、次にはチェチェンに関する命令を出していた。結果は決まったも同然の大統領選挙が近づいていた。」

※引用元:『プーチン ロシアを乗っ取ったKGBたち 上』キャサリン・ベルト著 (日本経済新聞社) 引用文:203-205 ページ

引用文:「エリツィン・ファミリーを取り巻く金銭スキャンダルは新聞の一面から押しのけられ、ウラジーミル・プーチンが前面に押し出された。(中略)プーチンはいきなりロシアの最高司令官になり、爆破攻撃に対する報復としてチェチェンへの大々的な空爆作戦を指揮したのである。(中略)この事件の調査に真剣に関わった者はみな、突然死亡したり、逮捕されたりしたようだ。(中略)そうしたなかで、プーチンの支持率は8月のわずか31パーセントから11月末には75パーセントに上昇した。これが狙いだったとすれば、後に「後継者作戦」として知られるようになった作戦は成功していた。」

※管理人注:引用文中の太字は管理人によるものです。

チェチェンとの戦闘で活躍するプーチンの姿がテレビ番組にしょっちゅう登場する前、プーチンはすでに表には出ない行動で大物の政敵を大統領選から撤退させることに成功していました。それは何とプリマコフでした。

※引用元:『クレムリンの5000日』エヴゲニー・プレマコフ著  鈴木 康雄訳  (NTT出版) 引用文A:6ページ 引用文B:6-7ページ

引用文A:「プーチンは、私が70歳になった祝いの席にも来てくれた。このとき、私はすでに首相をやめており、祝宴の会場は一流とはとても言えないモスクワの一レストランだった。集まったのは友人たちばかりだった。この時、エリツィン大統領はまだ辞任を発表していなかった。当然のことだが、私はエリツィン側近をだれ一人呼ばなかった。そのことをプーチンは知っていたにもかかわらず、来てくれた。来ただけでなく、彼は私に暖かい言葉を贈ってくれた。言うまでもなく、このことがあって、私はプーチンに親しみを感じるようになった。」

※管理人注:引用文中の「私」は、プリマコフです。

引用文B:「彼が連邦保安庁長官の職務にあった間に私は彼と連絡を取ることがあったが、彼は約束したことは必ず守る、きわめてしっかりした人物であるとも感じた。プーチンの大統領選出馬が固まったあと、私は彼に「大統領選挙ではあなたの対立候補にはならないと決心した」と伝えた。」

※管理人注:引用文中の「彼」はプーチン、「私」はプリマコフです。  

プーチンが花束を持って訪問するのは、昔からプーチンの常套手段でした。

※引用元:『独裁者プーチン』名越 健郎著 (文春新書) 引用文:72-73ページ

引用文:「99年始め、ベレゾフスキーが政敵から攻撃されていた頃、プーチンは夫人の誕生パーティーに花束を持って現れた。苦境の友を助ける友情、賄賂を受け取らなかった清潔さ、ペテルブルクでボスのサプチャクを見捨てなかった忠誠心で、ベレゾフスキーは『男の中の男』と評価した。」

※管理人注:引用文中にある「賄賂を受け取らなかった清潔さ」とは、1990年にベレゾフスキーがサンクトペテルブルクで自分が輸入したBMWなどの外車を、自分で修理する会社を立ちあげるために市議会の許可を取りに行った時、対応したプーチンが賄賂を要求しなかった出来事を指しています。当時のロシアでは賄賂を要求しない官僚は稀だったからです。さまざまな手段を使って相手に貸しを作る、プーチンの作戦にすぎないと考えられます。

※引用元:『プーチン 人間的考察』木村 汎著  ( 藤原書店) 引用箇所:320ページ

引用文:「ベレゾフスキイは、たとえば彼の妻レナの誕生パーティーの三日前にも、プーチンがまったく同様のことをおこなった事実を掌握していなかった。すなわち、KGBの最後の議長だったクリュチコフの誕生日に、プーチンは花束をもって議長宅を訪ねたばかりだった。プーチンはまた、プリマコフの誕生日にも花束を抱えて彼をわざわざ訪問する労をいとわなかった。」

7-2 後継者作戦

プーチンが2000年の大統領選に向けて着実にロシア国民の支持率を上げていく過程で、1999年9月22日に決定的に不可解な事件が起きます。

※引用元:『ロシア闇の戦争』アレクサンドル・リトヴィネンコ、ユーリー・リシチンスキー著  中澤 孝之訳  (光文社) 引用文A:11、引用文B:142-143

引用文A:「9月22日夕刻、ロシア欧州部中央に位置するリャザン州の首都リャザン市でアパート爆破未遂事件が発生した。アパートの地下で時限爆弾らしきものを包んだ袋が発見されたのだ。タイマーは翌朝五時半に爆発するよう設定されていたという。発見後、アパートの住人はもちろん周辺住民も、警察の命令により夜通し屋外での避難を余儀なくされた。犯人らしき三人の目撃情報があり、似顔絵まで配布された。ただちに非常線が張られた。こうした緊迫した状況の中、二日後の9月24日パトルシェフFSB長官が、爆弾は演習のためのダミーであり、袋の中身の白い粉は火薬ではなく粉砂糖だったと発表した。しかし、場発物のヒューズを外した警察の専門家は、数カ月後、ロシア紙とのインタビューで、爆弾は本物だったと暴露した。」

リャザン州知事やFSBリャザン州管理局も、演習があるとは聞いていなかったと発言をしました。

引用文B:「州知事V・N・リュビーモフは9月24日、生放送のニュース番組に登場し、「演習のことは私もまったく知らなかった」と答えている。(中略)FSBリャザン州管理局も同様だ。ブルドフ報道官は「FSB本部からは事前に演習の通告はなかった」と述べている。FSBリャザン州管理局長のアレクサンドル・セルゲーエフ少将も地元テレビ局『オカ』のインタビューに登場して、「演習」のことはまったく知らなかったと証言した。」

※参考文献:『クレムリンの殺人者』ジョン・スウィーニー著  土屋 京子訳  (朝日新聞出版) 引用箇所:99ページ 

引用文:「ロシア比較政治学会のボリス・カガルリツキーの話では、その夜、地元の警察は二人の人間を逮捕したという。「FSB工作員が現行犯で逮捕されたのです。逮捕された工作員たちは、FSBの身分証を示して逮捕を逃れようとしたそうです」
そのあと、モスクワのFSB本部が介入して、二人の男はひそかに釈放された。」

※引用元:『プーチン 生誕から大統領就任まで』  フィリップ・ショート著 山形 浩生, 守岡 桜訳  (白水社) 引用文A:16ページ 引用文B:17ページ 引用文C:16-17ペーシ

引用文A:「数日後、退役した司令官で、元ロシア安全保障会議書記のアレクサンドル・レーベジは、フランスの新聞『フィガロ』に対して、政権が爆破事件に加担していたことを「ほぼ確信」していると述べた。」

※管理人注:アレクサンドル・レーベジはアフガン戦争の英雄で、第一次チェチェン紛争を1996年に停戦へと導いた人物です。大統領選でライバルになるかもしれないプーチンの政敵でしたが、2002年にシベリアで乗っていたヘリコプターが墜落して死亡しました。この死亡事故には暗殺説があります。

引用文B:「リャザン(管理人補記:のアパート地下)で発見されたのと酷似した袋に、同じく「砂糖」と書かれRDXらしき物質が詰まったものが、街の近くの陸軍基地に保管されているのが見つかった。政府は議会内調査委員会の設置を阻止して、リャザン事件に関するすべての公文書を75年間機密扱いとするよう指示した。

※管理人注:引用文中の太字は管理人によるものです。

一連の爆破テロについては、チェチェン政府を含め、どこからも犯行声明が出ないままでした。しかし、リャザンの爆破未遂事件から10日後、プーチンはチェチェンを激しく攻撃しはじめます。プーチンが本格的にチェチェン人の虐殺を指揮するのはここからです。

引用文C:「十日後、チェチェン国境沿いに集結していたロシア軍が大規模な地上戦を仕掛けた。
プーチンが戦闘を指揮し、紛争に臨むその容赦ない生真面目な姿勢はロシア国民の共感を呼んだ。」  
ロシア軍は、チェチェンを冷酷なやり方で攻撃しました。

※引用元:『誓い』ハッサン・バイエフ著  天野 隆司訳  (アスペクト) 引用文:505ページ(訳者あとがき)

引用文:「(管理人補記:チェチェンの) 面積は岩手県ほどしかなく、1994年にはじまった第一次ロシア-チェチェン戦争前の人口は100万人たらずだった。以来今日(管理人注:2003年)までに人口の約四分の一、25万人もの人が殺され、いまでは生き残った国民の50パーセントが国外で難民生活を強いられている。

※管理人注:廃墟となったチェチェン大統領府です。引用元:NikolaiMisonikomii氏の『NOTE』というWebサイト。

2000年3月、プーチンは大差でロシア大統領に当選しました。
無名だったプーチンが国民の支持率を急速に上げて当選できたのは、チェチェン紛争というかたちでの「テロとの戦い」でした。プーチンは、今後ずっと生きているかぎり、自分の生命線になる重要な教訓を学習しました。「テロとの戦い」を大義にして軍事作戦を行い、戦果を出せば、ロシア国民は危機意識からプーチンへの支持を急速に高めるので、大統領選に勝てる、という教訓です。一方で、プーチンにとっては、ここまで来てしまうともはや後戻りは不可能です。大統領の座をおりると、過去の行状の責任をすべて問われるのを覚悟しなければならない、という事実を目の前に突きつけられたも同然だったからです。

《7-2節のポイント》
〖プーチンが学習した教訓〗
●「テロとの戦い」を大義にして軍事作戦を行い、戦果を出せば、ロシア国民は危機意識からプーチンへの支持を急速に高める。そうすれば、不利な状況からでも大統領選に勝つことができる。
〖プーチンが逃れられない事実〗
●大統領の座をおりてしまうと、過去のすべての行状の責任を、ロシア国民から厳しく問われる恐れがある。

7-3 チェチェン紛争の実態

チェチェン紛争はプーチンが直接かかわった初めての大量虐殺でしたが、そもそもチェチェン紛争とは何か、を説明します。

チェチェン共和国は、モスクワから1800キロほど南にあるイスラム教徒が多いソ連邦の共和国のひとつです。
18世紀からチェチェン人は、ロシアからの独立を願ってロシアと戦ってきました。
こうした独立運動や反乱を抑えるために、スターリンは、残酷きわまりない強制移住を1940年代に行いました。

※引用元:『暗殺国家ロシア』福田 ますみ著  訳  (新潮社) 引用文:52ページ

引用文:「独ソ戦が始まって4年目の44年2月、スターリンは、彼らの対独協力を恐れ、強制移住の大号令を下した。この鶴の一声によって、30万人以上のチェチェン人と9万3000人のイングーシ人が、たった1日で、数千キロ離れた中央アジアのカザフスタンやシベリアへ移住させられたのである。歴史上例を見ない、この過激な民族大移動の結果、18万人もの死者が出た。」

※引用文:『チェチェン』パトリック・ブリュノー、ヴィアチェスラフ・アヴュツキー著  萩谷 良訳  (白水社) 引用文:25ページ

引用文:「強制移住に際して、NKVD[ソ連内務人民委員部]による残虐行為もあった。高山の村落、ハイバフでは、積雪のため、軍のトラックが入って行けず、住民を運ぶことができなかった。すると、軍は、彼らを家畜小屋に閉じ込め、女性、子どもを含む数百人を生きたまま焼いたのである。」

このような仕打ちを受けた苦しみと悲しみの記憶は、ウクライナの「ホロドモール」(4-3節を参照)と同様に、チェチェンの人びとの心に後世まで残りつづけます。
ソ連が崩壊した機会をとらえて、1991年11月、チェチェン共和国初代大統領ジュハール・ドゥダーエフが独立を宣言しましたが、年間400万トンの石油を産出する「金のなる木」である上に、ソ連を構成するロシア共和国(管理人注:当時)のそのまた自治共和国であったため、ソ連憲法の適用外となり、エリツィンは独立を認めませんでした。
プーチンがかかわってくるのは、ここから7~8年後です。

※引用元:『ロシア闇の戦争』アレクサンドル・リトヴィネンコ、ユーリー・リシチンスキー著  中澤 孝之訳  (光文社) 引用文A:56-58ページ、引用文B:58-59ページ

引用文A:「1992年、チェチェン領内に置き去られたソ連軍の武器を、チェチェン人が賄賂を払って買いとった(中略)武器の見返りに賄賂を強要したのは、大統領保安局(SBP)局長コルジャコフ、連邦警護庁(FSО)長官バルスコフ、それにロシア連邦第一副首相オレグ・ソスコヴェツの三人だ。もちろん国防省もつるんでいた。(中略)
1992年以降もモスクワの官僚たちは、賄賂をベースとしたドゥダーエフとの旨い共同事業を続け、チェチェンの指導者はモスクワへ定期的に送金しつづけた。ドゥダーエフが政治問題をひとつでも解決するには、ほかに方法がなかったのだ。ところが、1994年になると、(中略)しだいに膨大な金額を要求するようになり、ドゥダーエフがノーといいはじめたのだ。(中略)
ドゥダーエフはエリツィンと直接会談したいと申し入れる。ことによるとこれまでのいきさつをエリツィンに告げるつもりだったのかもしれない。しかし、エリツィンに近づく手段を牛耳っていた三人組は、二人の大統領の会談を整えるには数百万ドルが必要だと賄賂を要求した。ドゥダーエフは支払いを拒み、(中略)暴露する文書を持っていて、それを公表すると脅したのである。ドゥダーエフはそうした文書を持っていれば逮捕されないと信じていた。(中略)だから、殺されるしかなかったのだ。(中略)こうして冷酷で無意味な戦争が仕掛けられることになった。

引用文B:「1994年11月22日、チェチェン共和国国防委員会はロシアがチェチェンに対して戦争を始めたと非難声明を出した。ジャーナリストたちが見るかぎり、戦争など起きていなかったが、(管理人補記:三人組にあやつられたロシア当局の)「主戦派」が軍事行動を起こす決意を固めたことをドゥダーエフは知ったのである。」「11月23日、おそらくは北カフカス軍管区に属するМI8型と見られるロシア軍ヘリコプターが二機、グローズヌイ(管理人注:チェチェン共和国の首都)から約40キロ離れたシャリの町をロケット弾で攻撃した。」「11月25日、(管理人補記:ロシア連邦内にある)スタヴロポリ地方の基地から発進したロシア軍ヘリコプター七機が、グローズヌイの空港と近くのアパートにロケット弾の集中砲火を数回浴びせた。」           

これにより、ロシア側からチェチェンへ軍事作戦を始めていたことが、わかります。
チェチェン紛争の裏話を著書で明らかにしたのは、ロシアのFSB元職員アレクサンドル・リトヴィネンコ氏です。彼は2002年にニューヨークで著書『ロシア闇の戦争』を出版した後、2006年11月、亡命先のロンドンで放射性物質「ポロニウム210」による毒殺で亡くなりました。

※引用元:『BBC NEWS JAPAN』のWebサイト  
※管理人注:ロンドンの病院に入院中のリトヴィネンコ氏の様子

引用文:

※引用元:『BBC NEWS JAPAN』のWebサイトから引用 

プーチンがFSB長官に就任したのは、1998年7月です。プーチンは、当時、チェチェン共和国側が望んでいなかった戦闘が、どうして、どのように始まったのかを、FSB内にある情報で把握していた可能性が十分に考えられます。
リトヴィネンコ氏によれば、戦闘の原因はチェチェンへの武器不正供与の暴露を恐れたロシア政府側にありました。それにもかかわらず、プーチンは1999年に首相へ就任して以降、チェチェン共和国への攻撃を激化させ、2003年までに紛争発生以来、通算で約25万人を殺戮しました。
プーチンは大規模な不正事件をひきつづき隠蔽し、なおかつ「強い指導者」を演じるために、「後継者作戦」の一環としてアパートの連続爆破をFSBへ指示し、チェチェン人を凶悪なテロリストにでっちあげて、チェチェンを激しく攻撃する口実を捏造した可能性が考えられます。なぜなら、1996年6月にドゥダーエフ大統領が空襲で亡くなった後も、他のチェチェン政府関係者によってロシア政府が腐りきっている実態を暴露されれば、エリツィン政権は完全にロシア国民からの信用をなくし、エリツィンによって後継者へ指名されたプーチンは大統領選で勝利する可能性が消えるからです。そのためにチェチェンでひきつづき大量虐殺を行い(それにより、関係者全員を抹殺し)、誰もこのことを暴露できないようにした、という可能性が考えられるのです。ただ単に「強い指導者」をアピールするために大量殺戮したとは限らないことになります。

7-4 プーチンが大統領選に勝った理由

プーチンが大統領選に勝利した理由を、あらためて振り返ります。
プーチンが大統領選に勝ったのは、「強い大統領」登場という演出に成功したからです。

6-1節のポイント》
●1990年代の大混乱の中、ロシア国民にとって、なによりも必要だったのは、生活の安定です。ロシア国民は生活の安定を実現してくれる指導者を待ち望みます。

※管理人注:6-1節からの再掲です。

生活の安定のためには、治安の安定と経済の安定が不可欠です。エリツィン政権下では、どちらも悪化する一方だったのです。
プーチンは、「テロリスト」に仕立てたチェチェンの人びとを、自ら率先して虐殺する様子を、さも「テロリストからロシアを守る力強い指導者」と見せかけることで、有権者へ強烈にアピールし、大統領選で勝利できたことになります。

7-5 誰でもできた経済の安定

生活の安定にとって、もう一つの重要な要素は、経済の安定でした。これは、大統領就任後に、労せずして手に入りました。

6-5節のポイント》
●1999年から原油価格は長期上昇傾向にはいりました。2000年の大統領選は、たとえ誰が当選しようとも、これからロシア経済が石油や天然ガスなどの輸出で大幅に潤うので、労せずしてロシアの「救世主」扱いをされうる時期に当たっていたのです。

※管理人注:6-5節からの再掲です

7-6 強欲なプーチン

大統領になったことで、プーチンの欲望は完全に満たされたわけではありませんでした。
どんな美酒であっても、酔いはすぐに醒めてしまうものです。醒めてしまったら、つぎの快感を求めます。ここまでは誰でもそうです。しかし、サイコパスの場合にはどんどんエスカレートするリスクがあります。

5-1節のポイント》
●プーチンは、東ドイツの指導者たちが、長年にわたって国民を騙し、私腹を肥やしていた様子を、KGB諜報員の立場から眺めつづけます。その過程で価値観の逆転が起き、ケース・スタディとして、彼らの失敗から不正蓄財の方法を学び取った可能性が十分に考えられます。

※管理人注:5-1節からの再掲です。

5-3節のポイント》
●プーチンは、副市長時代の経験から、市民や議会などを騙して私腹を肥やすには、より慎重に、第三者の調査が困難になるような複雑なスキームを使わなければダメだ、ということを学び取ったと考えられます。

※管理人注:5-3節からの再掲です。

ロシア大統領になってからは、世界中を驚かせるスキャンダルへとエスカレートしていきます。”パナマ文書”と”プーチン宮殿”です。

〖参考・パナマ文書〗

※参考文献:『パナマ文書の正体』大村 大次郎著 (ビジネス社) 

 租税回避地でペーパー・カンパニーを設立することで、富裕層が母国の課税から逃れるのを手伝っていたパナマの法律事務所「モサック・フォンセカ」のデータが、外部へ漏洩した事件の名前が、『パナマ文書』です。
漏洩したデータの中には、プーチンの友人ロルドゥーギン(4-1節を参照のこと)の名前で約2,000憶円をペーパーカンパニーの資産としていたことが発覚しました。ロルドゥーギンは世界的なチェロ奏者ではあるものの、約2,000憶円もの大金の本当の所有者は明らかでした。

〖参考・プーチン宮殿〗

これは、2024年2月に亡くなったロシアの反体制派指導者ナワリヌイ氏が、生前、プーチンがロシアの富を盗んで黒海沿岸に建てたと主張した豪邸(宮殿)のことです。

※管理人注:ナワリヌイ氏の逝去には、暗殺説が根強くあります。

※引用元:「BBC NEWS JAPAN」
※参考文献:『ナワリヌイ[DVD]』ダニエル・ロアー監督 ((株)トランスフォーマー)

プーチンがロシアの富を盗んで貯めつづけた正確な資産額は不明ですが、次のような分析があります。

引用元:『コラプション』レイ・フィスマン、ミリアム・A・ゴールデン著  山形浩生、守岡桜訳  (慶応義塾大学出版会)、引用文:291ページ

引用文:「故ボリス・ネムツォフは、ロシア大統領ウラジーミル・プーチンの声高な批判者だった。2013年の報道で、ネムツォフは2014年ソチオリンピックのための資金から、300億ドルが盗まれたと主張した。ネムツォフは2015年2月、クレムリン近くの橋で、背中を4発撃たれた。」

※管理人注:ボリス・ネムツォフは、エリツィン政権で第一副首相を務めたロシアの政治家です。


引用元:『そいつを黙らせろ』マーシャ・ゲッセン著  松宮 克昌訳  (柏書房)、引用文:311-312ページ

引用文:「プーチンはこの国を支配するマフィア一家の領袖としての地位を主張した。すべてのマフィアのボスたちのように、彼の個人的資産、彼の一族の資産と彼の一族の恩義を受けた人間の資産とをほとんど区別することはなかった。すべてのマフィアのボスたちのように、彼は金や資産があるところがどこであれ、ユコス(管理人注:かつてロシアの石油大手だった企業)に行ったようにいわゆる手数料を徴収し、彼の息のかかった仲間を配置することによって、または徹底したゆすりをすることによって富の蓄財をした。2007年の終わりまでに、少なくともクレムリンにアクセスできたあるロシア人の政治専門家は、プーチンの正味財産は推定400億ドル相当であると確信した。」

※管理人注:「すべてのマフィアのボスたちのように。・・・・区別することはなかった」について説明します。ロシアには、20世紀初頭のソ連時代から「掟盗賊」という通称のマフィアが存在し、マフィアの構成員は「大鍋」と呼ばれる組織の財源に献金するしきたりがありました。区別しない資産とは、大鍋のように所有者を曖昧にする資産のことを指します。

7-7 プーチンの生き残り戦略

大統領へ上りつめるまでの過程で、プーチンには、さまざまな疑惑がもちあがりました。2000年の段階で、すでに数多くの疑惑がありました。プーチンが顧問を務めたペテルブルクの不動産会社がロシアとドイツで資金洗浄をしていた疑惑、食糧スキャンダル、連続爆破テロに関する疑惑、チェチェン共和国の人びとを虐殺した疑惑、・・・・2000年以降は、さらに多くの疑惑が増え続けています。詳しくは、第5章~第7章の文献をご覧ください。
大統領に当選後、プーチンはつぎの2点について常に考えつづけざるをえない状況に陥りました。

7-2節のポイント》
〖プーチンが学習した教訓〗
●「テロとの戦い」を大義にして軍事作戦を行い、戦果を出せば、ロシア国民は危機意識からプーチンへの支持を急速に高める。そうすれば、不利な状況からでも大統領選に勝つことができる。
〖プーチンが逃れられない事実〗
●大統領の座をおりてしまうと、過去のすべての行状の責任を、ロシア国民から厳しく問われる恐れがある。

※7-2節からの再掲です

これからも大統領選に勝ちつづけるためには、「テロとの戦い」を大義にして軍事作戦を行い、戦果をあげればよい、そのためにはロシア人の大半が抱く感情に訴えるのが最も効果的だ、とプーチンが考えてもおかしくはありません。特に、プーチンへの支持率が大きく下がったり、反対派が盛んにデモをはじめたときには、「テロとの戦い」が必要となります。
そんなとき、プーチンが「ナチス」や「ネオナチ」などのキーワードを悪用しやすい地域は、旧ソ連から独立した国々です。なぜなら、それらの国々には、いまだに数多くのロシア人が暮らしており、「同胞(ロシア人)が、ネオナチに迫害されている」というデマをロシア国内に流しやすいからです。
他国へ軍事侵攻するにあたり、プーチンにとっては、次のロシア人の感情が便利です。

3-1節のポイント》
●ナチス・ドイツが第二次世界大戦中にソ連へ侵攻したことにより、多くの国民が殺されるなど、想像を絶する苦しみと悲しみが生じました。今でも、ナチス・ドイツへの深い憎しみが残っています。
●今日、プーチンが「ナチス」や「ネオナチ」などのキーワードを悪用してロシア国民を扇動できる素地ができたのです。

※管理人注:3-1節からの再掲です。

プーチンが他国を軍事侵攻する際に悪用できる、ロシア人の大半の人々が抱いている気持ちは、まだ他にもあります。

6-4節のポイント》
●ロシア国民の64%は、ソ連の版図の維持を、ソ連崩壊直後から望んでいました。この過半数の気持ちは、プーチンが少しずつ失われたソ連の領土を取り戻そうと企むうえで、役立ちます。ネオナチから迫害されている同胞(ロシア人)を救ってあげよう、とロシア国民へ信じ込ませやすくなるからです。

※管理人注:6-4節からの再掲です。「64%」は、あくまでも1994年の調査結果です。

さらに、大統領再選を果たすためには、大半のロシア人が抱くつぎの願望に働きかける、戦争以外の作戦も、効果的です。

4-3節のポイント》
●ソ連崩壊以来、ロシア人は「世界一」の威信を取りもどせる日を待ちわびるようになります。

※管理人注:4-3節からの再掲です。

たとえば、石油や天然ガスなどの地下資源を脅しの道具にすることで、世界の国々への発言力を増す方法や、ソチ・オリンピック開催などがあげられます。「偉大な大統領」「偉大なロシア」というイメージづくりは、大統領選に効果があるからです。
今や、プーチンは、ピョートル大帝のような歴史的人物を超えた、と自負しているのかもしれません。私腹を肥やしつづけた結果として世界一かもしれない資産を持ち、世界一の核兵器のボタンを持ち、世界の大半を敵に回しても侵略行為を行ないつづける唯一の独裁者だからです。

※管理人注:ピョートル大帝(在位1682~1725年)は、ロシアの冷酷な専制君主です。当時のスウェーデンやトルコと戦争をしました。プーチンは、ピョートル大帝のファンであることは、ロシアでは有名です。

あらためてサイコパスの特徴を振り返りましょう。

≪サイコパスの特徴≫

※管理人注:2-6節からの再掲です。

サイコパスと博愛主義者とは、まさに正反対です。
サイコパスは、他人のために尽くすことをしません。尽くしているように見せかけるのがきわめて上手なだけです。常に利己的な目的で行動します。同胞(ロシア人)のために戦争をせざるをえないのだという論理も、外国のスパイからロシア国民を守るために行なうのだという言論統制も、すべては自分自身のためにつく嘘です。
複雑な歴史認識をまくし立ててジャーナリストを煙に巻いたり、あたかもこちらの魂に触れてくるような対話のテクニックを弄したりするのも、結局は、自分が利益を得たり、自分が欲望を満たすためのサイコパスの詐術にしか過ぎません。
チェチェン人の大量虐殺のように、どのような冷酷な手段でも、自分が利益を得られるのなら、少しもためらわずに実行します。サイコパスの残虐性は想像を超えます。実行した後に反省することはまったくありません。ウクライナ戦争で亡くなったロシア兵の母親たちに対して「交通事故で毎年3万人が死亡する」「人はいつかは死ぬ」と述べて、かんたんに済ませられるのは、そのためです。
プーチンが核兵器の使用をチラつかせるのは、単なる脅しではありません。他の誰でもない、まさに自分自身の利益になることが確実であれば使用します。使用しないのは、確実に自分の利益を確保する使い方が見あたらないからです。サイコパスは冷酷な現実主義者なのです。

プーチンの残虐な行為は決して収まることはありえません。自らの犯罪行為を暴露しようとする者たちを始末するため、そして自らが生き延びて贅沢な暮らしを続けるために、あらゆる冷酷な手段を実行します。

あらたな被害者は、これからも増え続けます。世界へ与えるダメージはどんどん巨大化していきます。

その被害は、直接的あるいは間接的に、アナタにも及びつづけるのは確実なのです。

                                                                                                                       

第Ⅱ部 プーチンのプーチンによるプーチンのためのロシア

第8章 反対派を黙らせればよい

8-1 法改正の悪用

引用元:『KGB帝国』エレーヌ・ブラン著  森山 隆訳  (創元社)、引用文:208ページ

引用文:「2000年5月13日、重要な地方行政改革が行われた。ロシアは七つの連邦地域に分けられ、それぞれの地域は大統領を代表する「上級知事」によって管理されている。他の知事はこれら七人の「上級知事」の支配下におかれている。さらに、司法当局が連邦法に対する違反または「重大な過失」があったと認めた場合、プーチンは、最高会議が2000年5月に採択した法律に従って知事を解任することができる。」

その後プーチンは、「上級知事」をつかって地方の有力政治家たちを抑えこむだけでは不完全だと考えました。2004年12月には、知事を選挙で決めずにプーチンが指名する、という新法が圧倒的多数でロシア議会下院を通過しました。これにより、プーチンに反対する人間はそもそも知事に選ばれなくなりました。

※管理人注:これ以降、ロシア憲法などの法律は改正をくり返されていきます(ロシア連邦憲法は、2020年7月までにエリツィン大統領時代も含めると通算で14回改正されています)。

引用元:『ロシアンダイアリー』アンナ・ポリトコフスカヤ著  鍛原 多恵子訳  日本放送出版協会、引用文:294ページ

引用文:「これで1月からプーチンは何事によらず知事と協議する必要はなくなり、彼らが協力するかどうかの心配も無用になる。皇帝に必要なのは奴隷であってパートナーではない。」

※管理人注:著者のアンナ・ポリトコフスカヤ氏は、2006年10月7日に自宅アパートのエレベーター内で射殺されました。この日は、プーチンの誕生日と同じ日でした。

さらにプーチンは、地方の有力政治家たちを押さえつけるだけではなく、テレビの経営権を奪い取ってプーチンを批判する報道をさせないようにしました。

参考文献:『プーチン 人間的考察』木村 汎著  訳  藤原書店、参考箇所:105-106ページ

プーチンは大統領就任後、2000年7月に主要なオリガルヒやロシア大企業のリーダーたち21名をクレムリンへ呼びつけて口頭で指示しました。
プーチンは、ソ連崩壊直後の1990年代に彼らが手にした濡れ手に粟の不正な利益を咎めたり、国庫へ掃き出させたりしないと約束し、その代わりに、彼らは政治活動を厳に慎み、プーチン政権へ忠誠を誓い、協力しなければならない、と命じたのです。
つまり、オリガルヒたちが経営するテレビや新聞などを通じてプーチン批判をすることは絶対に許さない、報道以外にもオリガルヒ自らが政治活動をして政治に影響を与えることも許さない、という命令です。
これに対して、真っ向から反抗したのがグシンスキー、その後もベレゾフスキーなどの、プーチン大統領誕生に大きく貢献したと自負しているオリガルヒたちでした。しかし結局、彼らはプーチンから返り討ちにあいました。

引用元:『暗殺国家ロシア』福田 ますみ著 (新潮社)、引用文A:167ページ、引用文B:168-169ページ

※管理人注:ベレゾフスキー(享年67歳)は、ロンドン郊外にある自宅のサウナ内で、2013年3月に不審死しているのを発見されました。発見したのは、つねづね暗殺されるのを恐れていたベレゾフスキーが警護を依頼した私設警備員でした。

8-3 暗殺と暗殺未遂

法改正をして地方の有力政治家たちを押さえつけても、さらに、マスコミを支配してプーチンに好都合なニュースだけを報道させても、プーチンのさまざまな不正を暴こうとするジャーナリストはなくなりませんし、司法へ訴える弁護士、批判を続ける反体制活動家や政治家などが絶えることはありません。
その結果、死人に口なし、という手段に影の首謀者(誰なのかは明らかです)は訴えることになります。影に潜んだ首謀者として誰が実行犯へ犯行を命じたのかは、突き止められないよう、いつも巧妙な手口が使われます。

弁護士や反体制活動家などのケースを割愛し、特にジャーナリストに限定したとしても、暗殺や暗殺未遂は極めて深刻な状況にあります。

引用元:『暗殺国家ロシア』福田 ますみ著 (新潮社)、引用文Aと B:22-23ページ

引用文A:「ジャーナリストの権利擁護を訴えている「緊急事態ジャーナリズムセンター」のオレグ・パンフィーロフの調査によれば、ロシアでは、ジャーナリストの身辺を脅かす襲撃事件が年間80~90件起こっている。」

引用文B:「「グラスノスチ(情報公開)擁護財団」のアレクセイ・シモノフ所長によると、プーチンが大統領に就任した2000年から09年までに、120人のジャーナリストが不慮の死を遂げている。「このうち約70%、つまり84人が殺害されたとみられるが、自身のジャーナリスト活動が原因で殺されたと推測できるのは、さらにそのうちの48人だ。48人の殺害のほとんどは嘱託殺人と思われるが、首謀者(管理人注:表向きの首謀者)、実行犯ともに逮捕された例は数えるほどしかない。」」

残忍な犯行が影の首謀者や実行犯によって巧みに隠蔽され、闇の中へ消えたままのケースも多数存在すると考えられますから、正義の報道のために殺されたり、暴行を受けたり、毒殺未遂に遭ったジャーナリストをすべて列挙することは到底不可能なのです。

8-4 腐敗した警察

暗殺と暗殺未遂が横行するロシアでは、警察は本来あるべき機能を果たしていません。
警察は、プーチンが大統領に就任する以前から腐敗していましたが、現在もなお腐敗したままです。

引用文:「2010年3月19日付の『イズベスチヤ』紙は、東シベリアのハカシア共和国で「交通警察官が賄賂の受け取りを拒み、表彰を受けた」事件(?)を大々的に報じた。(中略)交通巡査は三本指に入るもっとも腐敗した公務員である。」「NGОのひとつ、ロシア汚職撲滅国民委員会のキリール・カバノフ委員長も、ロシアでは汚職が全くノーマルで、何ら特別の人間行為ではないとみなして、つぎのようにのべる。「賄賂の授受は、ロシアでごく日常一般におこなわれている行為である」「ロシア人は汚職とともに生まれ、汚職にとりかこまれて死んでゆく。」」

ロシア警察官の腐敗ぶりについては、ロシアにこんな小話もあります。

引用元:『ロシア人しか知らない本当のロシア』井本 沙織著 (日経プレミアシリーズ)、引用文:181ページ

引用文:「あるおまわりさんとその娘がいた。おまわりさんは休日遅くまで寝ていた。娘は窓の外を眺めていた。娘はこう叫んだ。
「おとうさん、おとうさん、早く起きて! 三台の車がここをタダで通ったよ」

ロシア警察官の腐敗ぶりは、ロシアではあまりにも有名なのです。

引用元:『ろくでなしのロシア』中村 逸郎著 (講談社)、引用文:124ページ

引用文:「モスクワ市内ではロシア人警察官がアゼルバイジャンやアルメニアなどのカフカース地方とウズベキスタン、タジキスタン、キルギスなどの中央アジアの諸国からの出稼ぎ労働者から賄賂を受けとり、かれらの不法滞在を放任しているとさかんに報じられている。〈世論財団〉が2010年に実施した調査によれば、警察官が職務をきちんと行使していると回答した人は16パーセントにすぎなかった。」

多くの警察官は、暗殺や暗殺未遂の捜査を「上からの指示」でやめてしまうことが知られています。上からの指示とは、ソ連時代からそうでしたが、上層部から現場部署への直通電話がよく使われます。暗殺の影の首謀者にとっては、電話一本で捜査を中止できる警察は、怖くも何ともない組織にすぎません。
プーチンは、警察に不正が蔓延していることに対して、次のように説明していました。

引用文献: 『ロシアンダイアリー』アンナ・ポリトコフスカヤ著  鍛原 多恵子訳  
(日本放送出版協会) 、引用文:55ページ

次は、2003年の12月18日にテレビ討論会で行われたムルマンスク州のアナトーリー・ニキーチン(一般の質問者)とのやりとりです。

引用文:「アナトーリー・ニキーチン(ムルマンスク州)[管理人補記:からの質問]内務総省と交通警察は金儲けに走っているようですが、これらの機関の仕事ぶりについてすべて報告を受けていらっしゃいますか。 
プーチン[管理人補記:の回答]今年、内務省関連で19,000件におよぶ不正が報告され、うち2,600件が直接的な違反でした。それにともない多くの政府職員が訴追されました。取締まりを強化しなければならないと思っています。あなたのご質問に率直にお答えするなら、答えはイエスです。私は法と秩序を司る国家機関の現状を承知しています。」

しかし、ロシアで警察の不正は一向に減りません。それは、ロシアで一番腐敗した人間が腐敗した国民を取り締まるのは不可能だからです。本当に取り締まりを強化すれば、不正をはたらいた指導者や犯罪を実行する手下たちも逮捕されかねないのですから。

注目すべき模範例があります。ソ連崩壊後に独立した国々のなかで、ジョージア(旧国名:グルジア)は、自分の力で不正ときちんと戦って成功しました。指導者のリーダーシップと議会の協力、そして適切な改革施策があれば、不正を減らすことは可能なのです。

引用文献:『コラプション』レイ・フィスマン、ミリアム・A・ゴールデン著  山形浩生、守岡桜訳 (慶応義塾大学出版会)、引用文:263-264ページ

引用文:「ジョージア国は認識調査(管理人注:トランスペアレンシー・インターナショナルによる調査)によると、1991年のソ連崩壊以降、旧ソ連諸国の中で最も腐敗していた国だった。(中略)政権の高まる専制主義に対する人々の抗議が2003年薔薇革命を生み出し、(中略)一部は反汚職を掲げて当選したサアカシュヴィリは、即座に警察の大幅な組織改革に着手した。(中略)ハイウェイ・パトロールなど一部の部署では、警官が一人残らずクビになり、それから一握りが慎重かつ選択的に再雇用されたのだった。(中略)サアカシュヴィリは再編された警察の新職員たちの給与を大きく引き上げ、雇用、研修、業績評価手順を改善した。政府の他の部門でも、汚職の疑惑をかけられた職員は激しい訴追を受け、(中略)様々な政府の権限が仕切り直された。たとえば、デジタルIDを配布する新しい省庁が設立され、このIDが新しい統合政府で使えるようになった。結果として、これまでは複数の部局での手続きが必要で、そのたびに賄賂が要求されていた各種手順が、一つの省庁での手続きだけですむようになり、その部局だけが集中的に汚職について監視を受けるようになった。
この改革は驚くほど成功し、(中略)TI(管理人注:トランスペアレンシー・インターナショナルの略称)ランキングで、ジョージア国は劇的な改善を見せ、2003年には清廉度が133位だったのが2010年には68位に上昇し、2014年には50位になった。」

※管理人注:2014年版のTIランキングでは、日本は15位でした。

ジョージアは、ロシアの南西に接する隣国であり、ともに旧ソ連へ属していたことから、政治的・社会的にロシアへ近い国です。プーチンがジョージアで成功した反汚職改革を早速ロシアにも導入しようとしない事実こそが、プーチンにとっては反汚職改革はきわめて不都合な政策であることの証明になっています。
プーチンは反汚職改革へ後ろ向きなのではありません。むしろ、反汚職改革のうごきを抑えていると考えられます。
反汚職改革のうごきを抑える動機としては、連続アパート爆破事件へのFSB関与疑惑、チェチェン紛争でのあからさまな犯罪行為の隠蔽疑惑、暗殺へのFSB関与疑惑など、さまざまな疑惑がプーチン政権にはあるからです。
ロシア国民の大半は、これらのことを知らないまま、プーチンを支持し続けています。

次に紹介するのは、具体的なケースですが、あくまでもほんの一部でしかありません。
リャザンのアパート爆破未遂事件(7-2節参照)では、逮捕された容疑者はひそかに釈放されました。

引用元:『クレムリンの殺人者』ジョン・スウィーニー著  土屋 京子訳  (朝日新聞出版)、引用文:99ページ

引用文:「ロシア比較政治学会のボリス・カガルリツキーの話では、その夜、地元の警察は二人の人間を逮捕したという。「FSB工作員が現行犯で逮捕されたのです。逮捕された工作員たちは、FSBの身分証を示して逮捕を逃れようとしたそうです」 そのあと、モスクワのFSB本部が介入して、二人の男はひそかに釈放された。」

チェチェン紛争では、ロシア軍内部の犯罪者は、ほとんど逮捕されることはありませんでした。

引用元:『チェチェンやめられない戦争』アンナ・ポリトコフスカヤ著  三浦 みどり訳 (日本放送出版協会)、  引用文:258ページ

引用文:「おかしなことと思う人もいるかもしれないが、この戦争は結局のところそれを遂行している者すべてにとって好都合なものなのだ。それぞれが自分の持ち場を得ている。契約志願兵は検問所で10ルーブルから20ルーブルずつの賄賂を四六時中手に入れている。モスクワやハンカラの本部にいる将軍たちは予算に組まれた「戦争」資金を個人運用する。中間の将校たちは「一時的人質」や、遺体の引き渡しで身代金を稼ぐ。下っ端の将校たちは「掃討作戦」で略奪する。
そして全員合わせて(軍人+一部の武装勢力)違法な石油や武器の取引にかかわっている。」

反体制活動家アレクセイ・ナワリヌイ氏は、2020年に毒物をつかった暗殺未遂に遭いました。回復したナワリヌイ氏は、調査報道機関ベリングキャットの協力で犯人グループを割り出すことに成功。ナワリヌイ氏自身が犯人グループへ偽電話をかけ、そのうちの一名にまんまと具体的な犯行内容を「白状」させることに成功しました。

驚愕の映像記録は、このDVDにあります。犯人の「証言」の中には、「特殊な警察」が犯行に協力していたという発言もありました。このDVDは、一見の価値があります!!!


参考文献:DVD『ナワリヌイ』 ダニエル・ロアー監督 (株式会社トランスフォーマー)、参考箇所:31:00-59:33

※引用元:「株式会社トランスフォーマー」のWebサイト(ナワリヌイ オフィシャルサイト)より

法治国家では、悪政に抗議するために国民は裁判所をつかいます。しかし、ロシアでは、政府による不正な弾圧、捏造された逮捕容疑・・・・・・これらに対して、弁護士を雇い、裁判をおこしても、裁判官は「上からの指示」に逆らえば失職してしまう仕組みになっているので、上からの指示により判決が歪められることが珍しくないといえます。

引用元:『社会人のための現代ロシア講義』塩川伸明、池田嘉郎編著 (東京大学出版会)、引用文:91ページ

ロシア連邦の憲法には、次のような条文があるので、「大統領府による圧力」をかけやすくなっています。
第128条:「ロシア連邦憲法裁判所長官、ロシア連邦憲法裁判所副長官、ロシア連邦憲法裁判所判事、ロシア連邦最高裁判所長官、ロシア連邦最高裁判所副長官及びロシア連邦最高裁判所判事は、ロシア連邦大統領の提案に基づき、連邦評議会が任命する。」「その他の連邦裁判所の裁判長、副長官及び裁判官は、連邦憲法の定める手続に従って、ロシア連邦大統領が任命する。」

8-6 プーチンが弾圧できない事態

あらゆる策略、暴力、暗殺などを駆使して押さえつけようとしても、プーチンには到底手に負えない事態が一つだけあります。ロシア国民全体の怒りが爆発して鎮圧不可能になる事態です。
1989年、プーチンにとって忘れられない光景があります。プーチンが駐在していた東ドイツでは東ドイツ国民の怒りが頂点に達しました。 「ドレスデンでは、毎日のように一万規模の抗議デモが続き、駅近くの広場で座りこみが行なわれた。(中略)11月4日には、50万人規模の大デモがベルリンで行なわれるに至った。」(5-1節参照

引用元:「オンライントラベルマガジン 旅コム」より 

東ドイツなどの東欧の社会主義諸国は、国民の不満・怨み・怒りが巨大なデモとなって公共の広場などにあふれ出し、鎮圧をあきらめた共産党独裁政権は、あたかもドミノ倒しのように、崩壊していきました。

プーチンにとっては、二度とあってはならない、もっとも恐れる事態であり、今でもトラウマとして心の傷になっています。

一万規模の抗議デモでは、催涙ガスや銃弾であっという間に蹴散らすことが可能です。しかし、50万人規模に達すると、軍の兵たちは造反をはじめ、諜報員たちは指令を放棄しはじめます。プーチンがもっとも恐れるのは、暴力で蹴散らせないほど大規模なデモがロシア国内で起こる事態なのです。

プーチンに残された唯一の予防策は、常日頃からロシア国民をたくみに騙し、プーチンを支持するようにロシア国民を洗脳しつづけることだけなのです。

第9章 ロシア国民を騙せばよい

9-1 「強い指導者」を望むロシア国民

かつてソ連が存在していた約70年間、ソ連共産党が独裁をしていましたので、政治家、官僚、警察、裁判官を含め、すべての国民はソ連共産党の指示に従わざるをえませんでした。ソ連共産党に逆らう者は、強制収容所へ送られたり、精神病院へ強制的に入院させられたり、粛清されたりしました。スターリンと政治的に対立したトロツキーのように亡命先で暗殺されたケースもありました。
ソ連国民はソ連共産党の指示に従い、指示を守らないと思われる者をお互いに密告し合っていました。

社会主義体制下では、大半の職場で、労働意欲が薄れていても、ウオッカで酔っ払っていても、クビにはなりません。そうした怠慢な労働者に対して、おとなしい管理者は侮蔑的に見られ、強い管理者のほうが部下から畏敬される、という文化になりました。
ソ連の良い面としては、生活必需品不足などがあっても、お互いに平等であり、そのため、共有し合い、助け合う生活を営むようになったところです。
ソ連崩壊後、ロシア国民の大半はソ連共産党の全体主義を望みませんでしたが、いざ資本主義の市場経済を導入したところ、殺人などの重大犯罪は横行し、ハイパーインフレにより貧困層は大幅に増え、ロシアの威信は地に落ち、国民相互の“絆”も弱まってしまいました。
ロシア国民は、ソ連共産党そのものではなく、かつてソ連共産党の「力」がそうであったように、ロシアを安定させる力を持った「強い指導者」を待ち望むようになります。
「強い指導者」を望む傾向は、現在でもつづいているのです。

ロシア国民の大半は、「強い指導者」がロシアを率いることは、社会の基礎にあるべき「民主主義」を確立するよりも重要である、と誤解しています。なぜ誤解なのかといえば、民主主義が機能しない国家に「強い指導者」が誕生してしまった場合、国民の意見は無視され、人権は踏みにじられる可能性が非常に高いからです。国家の指導者に国の富を盗まれてもリコールすることは現実的にできません。プーチンのように、無意味な戦争へと暴走するケースすらあります。

引用元:『現代ロシアを見る眼』木村汎、袴田茂樹、山内聡彦著 (NHK出版)、引用文A:106ページ、引用文B:102ページ

引用文A:「06年の全ロシア世論研究センターの調査では、(中略)政権がなすべきこととして「もっと断固としてロシアの国益を追求すべき」が76%、「もっと断固として秩序を確立すべき」が68%、これに対して「民主主義を徹底すべき」という世論は26%にすぎなかった。」

引用文B:「興味深いのは、ロシア人の民主主義理解である。「マスコミの検閲は必要か」といった具体的な質問の回答を見ると、「是非とも必要」が32%、「どちらかというと必要」が39%、合わせて71%のロシア国民がマスコミの検閲を支持している。(中略)ちなみに、民主主義に関して、「ロシア独自の道はあるか」との問いに対しては、「ロシアは独自の道を進むべき」と答えた者が2003年の時点で79%、「西側の民主主義と同じ道を進むべき」と答えた者が11%である。」

※管理人注:著者はこの記述を、2003年10月7日付の『コメルサント』の記事から引用しています。

プーチンは、ロシア国民の「民主主義」観を自らの政治哲学に利用しています。
プーチンの考えは、こうです。ロシア国民にとっては、政治を批判できる言論の自由や、誰でも大統領へ立候補できる選挙制度、国民が望む正義を保証する法律と裁判制度は必要ではない。「強い指導者」が国民を導き、国民は黙ってそれに従えば良いのだ、という政治哲学をもっています。
プーチンはこれを「主権民主主義」と呼びますが、造語に使用した文字(「主権」と「民主主義」)とその内容とは全くチグハグです。

引用元:『プーチン テロから戦争の混迷まで』フィリップ・ショート著 山形浩生, 守岡桜訳 (白水社)、引用文:115-116ページ

「主権民主主義」という造語よりも、「プーチンのプーチンによるプーチンのためのロシア」という造語のほうが、文字とその内容がぴったりとマッチします。

2007年、とあるプロレス会場での出来事が、テレビ・パフォーマンスの本質を風刺的に示唆しています。何を示唆しているのかは、当サイトの読者の皆さんがご自身でお考えください。
不動産業で大成功を収めた、という触れ込みで有名になった男がプロレス・リングの近くにいます(実際には、2軒のカジノ経営に失敗して破産法適用を申請したことのある人物です)。次の瞬間、この男はプロレス団体のオーナーに殴りかかったかと思うと、しまいには、リング上でオーナーを椅子に強制的に座らせ、その頭髪をプロレスラーやレフェリーと一緒に電動バリカンで刈り始めました・・・・・・。
これはプロレスですから、事前に仕組まれたショーでしかありません。しかし、観客は大歓声をあげて喜んでいます。
この男は、その後、超大国の大統領選挙へ立候補して当選し、世界を複数回破滅させることができるほどの核兵器のボタンを4年間管理しました。 プーチンもパフォーマンスでは、この男に負けていません。下の画像は、「強い指導者」をアピールする、プーチンです。

※引用元:「毎日新聞」のWebサイトより

2番目の画像は、65歳を過ぎているにもかかわらず寒中水泳をしているときの画像です。

引用元:『プーチンの世界』フィオナ・ヒル、クリフォード・G・ガディ著  畔蒜 泰助監修訳  (新潮社)、引用文A:154ページ、引用文B:155-156ページ

引用文A:「1999年、プーチンがチェチェンのテロリストを「便所のなかまで追いかけて皆殺し」にすると初めて脅しをかけて以来、「ワル」「タフ・ガイ」というイメージが表向きのペルソナの核となり、モスクワのエリートたちとは一線を画す役割を果たしてきたのである。大統領および首相の任期中、ロシア国民と交流するときは必ず、プーチンは国民を代表する真のロシア男(ムジーク)というイメージを前面に押し出した。テレビでの発言や各地での演説では、「私はみなさんと同じ。モスクワの特権階級とは違う」と積極的にアピールした。」

引用文B:「掌握者あるいはボスとしてのプーチンのもっとも有名なパフォーマンスといえば、テレビや公聴会などにおける、部下、悪徳官僚、貪欲なオリガルヒたちをこき下ろす定期的な見せしめである。こうした見せしめの儀式は、入念な計算のもとに、特定の問題に対する国民の不満が募った絶妙な場面で行われる。(中略)プーチンが決まって強調するのは、自分が個人的にずっと状況を注視し、土壇場になって必要とされたタイミングで介入を決めたということだ。」

たとえば、2009年、ロシアの巨大複合企業(ベーシック・エレメント)がサンクトペテルブルク近郊の町ピカリョボにあるセメント工場で大量解雇を決めたことが連日テレビ・新聞をにぎわした際には、会長オレグ・デリパスカと工場責任者たちを「ゴキブリ」と罵り、セメント工場の生産を再開するように命じました。
このときの画像です。

※引用元:「四国新聞」のWebサイトより

2009年6月4日、オリガルヒのオレグ・デリパスカがCEОを務める持ち株会社「ベーシック・エレメント(ベーゼル)」のピカリョボ工場の操業停止に対して、プーチンがヘリコプターで向かいペンを投げつけて操業再開と賃金支払をさせたという、「お仕置きショー」には、こんな裏がありました。

引用元:『メドベージェフVSプーチン』木村 汎著 (藤原書店)、引用文:135ページ

引用文:「「ベーゼル」傘下の中核企業「ロシア・アルミニウム(ルサール)」社は、ロシア政府へ要請中だった融資額45億ドルの満額回答を即時に受け取った。

これが、プーチンによるテレビ・パフォーマンスの舞台裏でした。それはロシア国民を騙すための茶番劇だったのです。

9-4 苦境に立つと、「強い指導者」を演じる

プーチンがロシア国民を洗脳できた割合は、ロシア国民のプーチン支持率でわかります。プーチン支持率の推移は、次のとおりです。

※引用元:『プーチン 内政的考察』木村 汎著(藤原書店)

プーチンは第2次チェチェン紛争で「強い指導者」を演じたことで、2000年2月に支持率を84%へ急激にアップさせ、3月の大統領選挙で当選しました。しかし、直後の8月には61%へ急激にダウンしています。
これは、2000年8月12日に発生した原子力潜水艦クルスクの事故への対応が非常に無責任であったからです。
クルスクは、演習航海中に艦内の魚雷が爆発して沈没。原潜内に取り残された乗組員118名は、何日間か生き延びたものの、結局は全員が死亡してしまいました。
8月12日の事故発生から8月22日にプーチンがようやく現地入りして遺族と約6時間にわたって直接対話をするまで、プーチンは黒海沿岸でのんきに休暇をとりつづけていたのです。

引用元:「日刊ゲンダイ」のWebサイトより

上の画像は、原潜クルスクの遺族と直接対話をするプーチンの画像です。
苦境に立ったプーチンは、「国の富をかすめ取っているオリガルヒを罰する強い指導者」としてのパフォーマンスを演じることで、国民の人気を取り戻そうとしました。2000年11月にオリガルヒの「ベレゾフスキーが大株主である航空会社アエロフロートの資金横領容疑で彼を追求」したのです。(8-4節参照) 2001年2月の支持率は70%あたりまで回復できました。
2003年10月には、オリガルヒのホドルコフスキーを逮捕することで、大統領選挙がある前年の2003年後半時点では支持率を86%まで上げることに成功したのです。
そして、2004年には大統領へ無事再選されました。

ところが、2005年2月にプーチンの支持率は、再び65%へ落ちました。
これは、2005年1月1日にロシア国民のためにあった恩典を少ない現金支給へ変える法律を施行したことが決定的であったと考えられます。ロシア各地で抗議集会が開かれたほどでした。

引用元:「社会保障政策の転換―恩典制度の廃止―」溝口 修平著

引用文:「ロシアでは、第二次世界大戦の元復員兵、チェルノブイリ原発事故の被害者、政治的抑圧の被害者など様々なカテゴリーの人々に、医薬品、 病院での治療、都市交通や保養施設の利用などを無料で提供してきた。国民の5人に1人に相当する3000万人から4000万人の人々が現在こう した恩典を享受しており、(中略)強い反対意見が存在していたものの、議会での優位を利用して政府は短期間で恩典廃止法を成立させた。」

これはそもそも、プーチン政権が資源採掘などの徴税権を地方から奪ったために、地方政府が恩典をつづけるための地方財源を失ったことが原因と言われています。「プーチンの正味財産は推定四百億ドル相当である」(7-6節参照)と言われていることから、プーチンとその一派が国の富をかすめ取ることに熱心なあまり、地方政府の財源をないがしろにした結果とも考えられます。
このときは、ロシア国民に一番影響力のあるテレビを、既にオリガルヒたちから奪い取って政府管理としていたので、プーチンはテレビに政府批判をさせませんでした。
さらに、プーチンの強運も手伝いました。1999年以降、ロシア経済は石油や天然ガスなどの輸出で大幅に潤い、労せずしてプーチンがロシアの「救世主」扱いをされる時期に当たっていたのです(6-5節参照)。ロシアのGDPは毎年順調にアップし、ロシア国民の収入はどんどん増え、2006年には対外債務を完済することもできました。
こうしてプーチンは、徐々に支持率をアップさせ、2007年12月のロシア下院選挙では支持率が87%に達しました。

プーチンは、大統領の座をおりてしまうと過去のすべての行状の責任を、ロシア国民から厳しく問われる恐れがあるにもかかわらず、2008年、プーチンは大統領の座をメドベージェフへ譲り、プーチン自身は首相になりました。しかし、これにはちゃんと裏がありました。

引用元:『プーチンの思考』佐藤 親賢著 (岩波書店)、引用文:6-7ページ

引用文:「プーチンが大統領の連続三選を禁じた憲法を守るとして、2008年5月で退任する意向を示した時には「大統領を続けてほしい」の声が出、憲法改正を求める意見も強かった。」

メドベージェフへ大統領職を譲ったものの、政府の要職はいまだプーチンの手下で固められていました。

引用元:『独裁者プーチン』名越 健郎著 (文春新書)、引用文:153-154ページ

引用文:「権力層の研究で知られるオリガ・クリシュタノフスカヤは、「プーチンの大統領二期目が終わる08年までに、権力中枢ポストの八割以上はプーチンの息のかかったサンクト派や旧KGB人脈で占められた」と分析した。」

大統領へ就任する前から、メドベージェフはプーチンに対する忠誠のご褒美として、国営ガス独占企業であるガスプロムの会長などの「たっぷりと儲かる」役職を与えられ、贅沢な資産を手に入れることができるようにしてもらい、プーチンからたっぷりと「餌付け」されていました。

引用元:『ナワリヌイ プーチンがもっとも恐れる男の真実』ヤン・マッティ・ドルバウム、モラヴァン・ラルーエ、ベン・ノーブル著  熊谷 千寿訳  (NHK出版)、引用文:81ページ

引用文:「彼を陰の悪党とか隠れた億万長者などとは思わないほうがいい。重要なイベントで寝てしまったりする、スマートフォンやガジェットが大好きなとんでもないまぬけだ。ロシア有数の金持ちで、有数の汚職高官でもある。
2017年3月2日にユーチューブで公開した「彼をディモン”と呼ぶな」という動画の冒頭で、ナワリヌイはそう語る。今回のテーマは当時の首相、ドミトリー(ディミトリ)・メドベージェフだ。”ディモン”というのは彼のファーストネームの愛称だ。(中略)ヨット。イタリアのトスカーナの別荘。モスクワでも最高級住宅地にある邸宅。果樹園。山あいの別荘。クルスク州の父祖伝来の家。サンクトペテルブルクの宮殿。FBK(管理人注:ナワリヌイ氏が立ち上げた《反汚職基金》の略称)の調査結果によれば、それらすべてがメドベージェフ自身の資産帝国であり、その帝国は”プーチン宮殿”において強く疑われたときとまったく同じように、複雑に張り巡らした金づるによって打ち立てられたのだという。」

サイコパスであるプーチンは、なかなか人を信用しません(4-1節参照)。プーチンは、メドベージェフとサンクトペテルブルク時代から一緒に仕事をしていたので、プーチンは大統領の座を譲るまで15年以上をかけて、メドベージェフの弱味をしっかりと収集し、万が一、メドベージェフがプーチンを裏切った場合に「一撃で確実に仕留める武器」としていたはずです。
メドベージェフは大統領就任から6カ月後(2008年12月)、プーチンへの忠誠の証として、憲法を改正して新たな大統領任期を4年から6年へと延長しました。次期大統領からは任期が6年となりました。            

引用元:『プーチンの思考』佐藤 親賢著 (岩波書店)、引用文A:118ペーシ、引用文B:9-10ページ

引用文A:「ロシアの新聞はこれを「プーチン復帰のためのお膳立て」と一斉に書き立てた。」

それから約3年後、2011年9月24日に開催された与党「統一ロシア」党大会で、メドベージェフとプーチンのポストを逆転させて元に戻すことが発表されたとき、プーチンはこう述べました。

                                               

第10章 ロシアの富を独占すればよい

10-1 「国営化」という建前の私有化

プーチンは、「国営化」という建前で、ロシアの重要産業の「隠れた私有化」をすすめました。 

引用元:「プーチン政権下における国家産業支配と企業管理」安達 祐子著

引用文:「プーチン政権が2000年に始動して以来、経済への国家関与が強化されてきた。産業支配と企業管理の観点からもその傾向が顕著である。ロシアの代表的経済誌『RBK』によるトップ500社の企業ランキングは、国有企業の強い支配度と大企業群における資源セクターの集中度を示す(表1)。2021年のデータによると、ランキング上位の企業ではトップ5のうち4社、トップ10のうち7社、トップ20のうち12社が国有である。また、トップ500社のうち75社が国有企業であるが、その売上高シェアは40%を超えると推定される。」
「「掃除機方式」で出来上がった国家コーポレーションは、個別法によって設立されるため、株式会社のように民法典による規律が当てはまらない。株主総会などは開催する必要がないし、会社法の定める法人のような説明責任は要求されていない。運営上も、特殊な法人格によって、競争法や破産法が定める法的義務から免除されている。また、社長の任命や解任も基本的に大統領によってなされるため、人事権を持つ大統領の意向が反映しやすくなっている。」
「透明性と公に対する説明責任が緩くなり、恣意的で私利的な決定を下す機会を作り出すというリスクがあった」
「プーチン大統領の人的ネットワークに属する人々が主要企業の要職についていることは数々の文献が示している。(中略)プーチンを 「社長」とする「ロシア株式会社」であり(中略)社長に近しい人々が、社長を囲む「非公式取締役会」を構成しているという構造である」
「ギャディー(管理人注:研究者名です)らは,プーチン大統領は、ロシア経済を支える石油・ガスからのレントの流れを掌握し、レントを分かち合うシステムを作り上げたと論じる。」








引用元:「プーチン政権下における国家産業支配と 企業管理」安達 祐子著より

国家コーポレーションは、二重の意味で隠れ蓑になっています。一つには、国家コーポレーションは建前としては非営利組織ですが、その傘下にある巨大な営利企業群が生みだす膨大な利潤を管理しているからです。もう一つは、プーチンを頂点とする一派が膨大な利潤を分け合う仕組みを隠蔽しているからです。

10-2 手下たちの「餌付け」

「隠れた私有化」をした後、プーチンは企業の管理を手下たちに任せ、彼らがたっぷりと儲けて贅沢な資産をつくれるように「餌付け」をしました。もちろん、裏切った場合の報復の準備も常日頃から怠りなくしているはずです。


引用文献:『独裁者プーチン』名越 健郎著 (文春新書)、引用文:162-163ページ

引用文:「08年には、政府系有力企業計426社の政府保有株式を新たな国策会社ロステフノロギヤ(管理人注:国家コーポレーションの一つ)に譲渡し、巨大国策持ち株会社を創設した。
これら国策企業のトップには、ペテルブルク時代の友人やKGB時代の同僚が抜擢された。セルゲイ・イワノフは統一航空機製造公社会長、セチンが統一造船公社会長、ロステフノロギヤ社長にはチェメゾフといった具合にシロビキ(元KGBグループ)が要職を占めた。サンクト派は大抵、政府要職に加え、国営企業、政府系企業の役員に就任しており、政治と経済の利権を一手に掌握するシステムだ。(中略)国有化は(中略)独占体制や競争の欠如を招く。なによりも国有化が、腐敗・汚職の温床を増幅させてしまった。」

※管理人注:名前と役職は、あくまでも参考文献が出版された2012年当時の状況です。

プーチンが手下たちに与えた役職は、国営企業の役職だけではありません。民間企業や政府の重要な役職など、例をあげればきりがないほどです。いちおう他の例も一部だけ挙げます。


参考文献:『プーチン 人間的考察』木村 汎著 (藤原書店)、参考箇所:131ページ、170ページ、371ページ、377ページ

プーチンの少年時代から東ドイツのドレスデン時代までの人的交流の中から、順に例を挙げます。

《プーチンの柔道人脈》
●「アルカージイ・ローテンベルク(兄)・・・「ガスプロム」用パイプライン敷設を一手に引き受ける大富豪」  
●「ボリス・ローテンベルク(弟)・・・新オリガルヒの1人。」  
●「ゲンナージイ・ティムチェンコ・・・石油販売会社「グンボル」の共同経営者。ガス会社「ノヴァテック」も所有。」  
●「ビクトル・ゾロトフ・・・プーチンのボディガードを経て、現在、内務省軍司令官。」
《プーチンのKGB人脈》
●「ニコライ・パトルシェフ・・・現在、ロシア安全保障会議書記。」
●「ビクトル・チェルケソフ・・・麻薬流通監督庁長官にまで昇りつめたが、パトルシェフFSB長官らとの派閥闘争に敗れた。」
●「ニコライ・トカレフ・・・プーチンの東独勤務時代のKGB仲間。国営の石油パイプライン独占企業「トランスネフチ」社長。」
●「アレクサンドル・バストルイキン・・・プーチンの大学の級友。連邦捜査委員会議長として、反プーチン集会・デモの取り締まり担当。」
《協同別荘組合『オーゼロ』人脈》
「ペテルブルク市から北東へ向かって約一時間半ほどドライブすると、カレリア地方のイストムスと名づけられる地域に到着する。(中略)このイストムスに、プーチンは、1996年、七名の仲間と語らって別荘地を共同購入した。(中略)協同別荘組合の名称は、『オーゼロ(ロシア語で「湖」の意)』と名づけられた。(中略)しばらくして、その仲間のひとりが、当時予想もしなかった大出世をとげることになった。改めていうまでもなく、ボロージャ(プーチン)である。そのために、残りの七人全員はその後プーチンによって思いがけず引き立てられ、陰に陽に便宜を計ってもらう恩恵に浴することになった。」
「ウラジーミル・ヤクーニンは「ロシア鉄道」社長、アンドレイ・フルセンコは、ロシア連邦の教育・科学相を経て大統領補佐官、その弟のセルゲイ・フルセンコは「国民メディア・グループ」総裁に任命された。ユーリイ・コヴァルチューク、ニコライ・シャマロフらが「銀行”ロシア”」を創設したところ、ロシアの最高指導者であるプーチン大統領から直接、間接の支援を受けることになり、同銀行はまたたく間に急成長をとげた。」
セルゲイ・コレスニコフ:「銀行”ロシア”」元幹部。プーチン大統領用の豪華な「宮殿」建設告発し、現在、海外移住。
《サンクトペテルブルク人脈》
●「ゲルマン・グレフ・・・レニングラード国立大、大学院卒。経済発展・貿易相をつとめ、現在、ロシア貯蓄銀行総裁。」
●「ドミートリイ・コザク・・・レニングラード国立大卒。現在、副首相。」
●「アンドレイ・イラリオーノフ・・・レニングラード国立大卒。プーチン大統領の経済顧問をつとめ、辞職。」
●「ビクトル・ズプコフ・・・レニングラード農業大卒。ロシア連邦首相をつとめ、現在、第一副首相。」
●「ウラジスラフ・スルコフ・・・プーチン、メドベージェフ政権のイデオローグ。現在、大統領補佐官。」

10-3 国民の不満をしずめるためのバラマキ

自分たちは「隠れた私有化」により国の富をかすめとって贅沢三昧をし、一方で国民にはひたすら貧しい生活を強いるだけでは、東ドイツが崩壊したときと同じように、ロシア国民の不満は爆発してしまいます。
かといって、ロシアは先進国とは異なり、まだまだ貧しい状態のままです。そこで、施し程度のバラマキをおこなうことで、ロシア国民の不満をガス抜きしたり、大統領選に向けての対策に利用することになります。
2005年1月1日にロシア国民のためにあった恩典を少ない現金支給へ変える法律を施行したことにより、ロシア各地で抗議集会が開かれた(9-4節参照)ときには、プーチンが慌てて恩典の一部を復活させました。プーチンの鶴の一声で復活したのでした。


引用元:「しんぶん赤旗」のWebサイト

引用文:「与党「統一ロシア」や政府は当初、「地方首長が制度改正に沿った対応をしていない」と責任を回避していました。しかし事態を重くみたプーチン大統領が十七日、政府に収拾を指示。これをうけて政府は、地方政府への無料交通復活分の予算の送付、年金の物価スライドの二月からの前倒し実施、基礎年金の引き上げなどを発表しました。」



引用文献:『独裁者プーチン』名越 健郎著 (文春新書)、引用文:163ページ

引用文:「(管理人補記:プーチンは、)巨額のオイルマネーを安定化基金と称して溜め込み、産業多角化や中小企業育成、インフラ近代化に使用しなかった(中略)代わりに、安定化基金を増やしてマクロ経済を好転させ、対外債務を完済。残りは(管理人注:2012年のロシア大統領選挙対策としての)公務員給与や年金増などバラマキや国策企業再編に使った。」

これほどまでにロシア国民を騙している以上、仲間内での裏切り行為は決して許されません。
裏切り者には報いがあります。報いは、海外へ亡命しても受ける可能性があります。

引用元:『ロシアン・ルーレットは逃がさない』ハイディ・ブレイク著  加賀山 卓朗訳  (光文社)、引用文:24ページ

引用文:「2006年には、実質的に外国で国家の敵を殺す許可をFSBに与える新しい法律まで制定した。それ以降、プーチン政権を批判する人間、政敵、裏切り者が、アメリカとヨーロッパで殺されるか、謎めいた状況で命を落としている。」


                                                                                           
                                                                                                               

第Ⅲ部 “自由と民主主義”に包囲されるプーチン
第11章 民主化を求める革命の足音

11-1 そっちも、やってるだろう

プーチンは、石油・天然ガスなどの資源セクターを中心に、「隠れた私有化」をするため、ロシアの主要企業を国有化しました。一方、1990年代の混乱期に汚い手段でまんまと巨大企業を手に入れたオリガルヒたちは、プーチンの言いなりになることを条件に、そのまま経営しつづけることを許されました。
ロシアは、プーチンとその手下たちが国家の富を分かち合う体制となったのです。
適材適所の人材ではなく、プーチンの言いなりになる下僕たちがロシアの主要産業を支配する結果、企業統治はおろそかになり、国は適切な税収を確保することができず、新しい産業の育成はほとんどおこなえない状態が続いています。ロシアはいまだに資源産業中心の発展途上国のままなのです。
プーチンは、マスコミのプーチン批判を封印し、マスコミをロシア国民洗脳装置としました。議会の議席数は、プーチンの与党「統一ロシア」とプーチンに協力する準与党が三分の二以上を占めているので、プーチンは意のままに憲法を改正することができます。
警察の不正はあいかわらず減りませんし、公正な裁判がおこなわれるともかぎりません。ロシア国民は国家の腐敗に常に大きな不満を抱きますが、議会はプーチンの手下たちが大勢を占めるので、ロシア国民の不満を解決しようとはしません。たまに、「正義の味方」のフリをしてプーチンはテレビへ登場し、ほんの一部の問題解決に「辣腕を振るう」猿芝居を打ちます。腐敗しているのはプーチンの取り巻き、官僚たち、オリガルヒたちであって、いつかプーチンだけが何とか解決してくれるかもしれない、とロシア国民に思い込ませるためです。
総じて、プーチンとその手下たちが大金持ちになり、ロシア国民の大半は犠牲になる体制です。
つまり、ロシアの「主権民主主義」は、民主主義とは名ばかりの完全なインチキなのです。
他国の指導者からロシアの「主権民主主義」の欺瞞性に対して批判が出ますが、プーチンは意に介さないどころか、腹黒い外国首脳をみつけては篭絡をおこないます。

※管理人注:ダン・ラザーは、アメリカの有名なジャーナリストです。2004年のアメリカ大統領選中にジョージ・W・ブッシュの軍歴詐称を「スクープ」しましたが、「スクープ」は捏造であることが判明し、ラザーは2005年3月9日、番組降板が決定しました。

引用文B:「プーチンは狡知に長けている。アメリカの影響力を薄めようとするジャック・シラクゲアハルト・シュレーダーに(管理人補記:二人へ)協力する見返りに、(管理人補記:プーチンが)ロシア国内で支配を強めていることを擁護するよう求めた。サンクトペテルブルクのG8の晩餐会で、多くの国の指導者が、プーチンのこれまでの民主化の取り組みに疑問を呈した。シラクはそれに与しなかった。プーチンはロシアの舵取りをたくみにやっているし、どういうふうにやろうが外国の関与するところではないと(管理人補記:シラクはプーチンを擁護するために)告げた。それも、ドイツのゲアハルト・シュレーダーのやったこととくらべれば、かわいいものだった。シュレーダーは首相辞任後に、ロシアの国有エネルギー巨大企業ガスプロムの会長に就任した。」

11-2 カラー革命への不安

※引用元:『JIJI.COM』というWebサイト

引用文:「その暴君ぶりで、“狂犬”と恐れられたリビアのカダフィ大佐が殺害されてから、3週間余りが過ぎた。盗んだパンを食べながら民家を転々とする逃亡生活を続け、最後は下水溝の中で捕らえられて殺されたという壮絶な死にざまは、世界中を驚かせた。」


※管理人注:カダフィに対する“狂犬”という評価は、一面的過ぎるという反論があります。「日本や欧米の報道では、カダフィは暴力的な独裁者というイメージですが、かならずしもそういう一面だけで語られるべき人物ではありません。」(引用元:『「アラブの春」の正体』重信 メイ著(角川oneテーマ21) 引用文:76ページ)

カダフィの惨殺死体の画像は、インターネットを通じて世界中へ拡散されたので、プーチンは惨殺されたカダフィを見て、震え上がったはずです。
なぜ震え上がるのかと言えば、プーチンはロシア国民を苦しめている独裁者だからです。
●プーチンは独裁者であり、ロシア国民の自由を制限し、民主主義を抑圧しています。
●プーチンはロシアの富をかすめ取り、一説では、約400憶ドルの資産を溜め込んでいます。
●プーチンはロシアを「救った」ふりをしていますが、1999年以降、たまたま原油価格が長期的に上昇する幸運に恵まれたにすぎません。
●プーチン政権下では、プーチンとその手下たちは主要産業を支配しつづけているので、現状のままではロシアの産業が発展する可能性は乏しいといえます。
●プーチンはロシア大統領になるために、アパート連続爆破事件を起こし、さらに、チェチェン人を虐殺した疑惑があります。
●プーチンは、反体制派のジャーナリスト、政治家、弁護士などを暗殺や暗殺未遂をした犯行グループの首謀者である疑惑があります。

12-4 ドレスデンの再現⁇

2011年10月にカダフィの惨殺死体画像が拡散された直後の12月4日、ロシアで下院選挙が行われました。プーチンは、カダフィが惨殺された日(2011年10月20日)から約1ケ月半後にロシア下院選挙を迎えたので、ロシア国民によるプーチン批判の高まりを鎮める有効な手立てを打つ時間がありませんでした。

プーチンにとって厳しい逆風が吹く中で、2012年の大統領選がはじまり、プーチンは何とか乗り切ったものの涙を流す羽目となりました。
プーチンにとっては、1989年の東ドイツ崩壊直前のように、国民の支持を失っておさえきれないほどの大規模デモの連続発生に直面することが最悪の事態です。もしもそうなれば、プーチンは失脚し、これまでの悪行がつぎつぎに露見して、ロシア国民から責任を問われることになるからです。
プーチンは、ロシア国民の支持率を大きくアップさせる計画を実行せざるをえない情況に追い込まれたのです。こうした情況から、ロシアによるクリミア併合の動きが始まります。

13-2 クリミアの特殊な事情

大統領の座を失う不安が長引くにつれ、プーチンはウクライナにあるクリミア(半島)に目をつけました。
プーチンの支持率が低迷しているあいだ、クリミアがあるウクライナは政情が不安定化していたので、プーチンはウクライナにつけ入るスキを見つけました。プーチンは、ロシア人にとって人気の観光地であるクリミアをロシアへ併合することにしたのです。

※管理人注:クリミア南岸のヤルタの風景。引用元:『RUSSIA BEYOND』というWebサイト

2012年以降のプーチンの動きを見る前に、最初に、クリミアの歴史をかんたんに振り返ります。
歴史を振り返ることで明らかになる重要な事実は、二つあります。
◎クリミアはもともとロシア人が先住民ではなく、旧ソ連のスターリンが先住民であるクリミア・タタール人を追い出した土地でした。したがって、クリミア併合はロシア人がロシア人の先祖伝来の土地を取り返したことにはなりません。
◎旧ソ連時代に憲法より遥かに優越していたソ連共産党がクリミアをウクライナへ移管した後、ソ連崩壊後も、ロシアもクリミア自体もウクライナがクリミアを領有し続けることをそれぞれの条約や憲法で同意していました。
これらの事実を確認します。

参考文献:『民族自決運動の比較政治史』松嵜 英也著 (晃洋書房)、参考箇所:53-60ページ、81-117ページ、引用文:92ページ

1921年、ソ連は、クリミアを自治共和国として創設した時点で、先住民であるクリミア・タタール人を、もともとクリミアのなかのマジョリティの民族であったので、基幹民族と認定しました。ソ連政府は、共産党高官へクリミア・タタール人を積極的に登用し、クリミア・タタール語をロシア語と並んで国家語としたのです。
しかし、第二次世界大戦中の1944年、スターリンは、クリミア・タタール人をナチス・ドイツに協力した廉で、ウズベキスタンをはじめとして、タジキスタン、ロシア、ウクライナへ強制追放しました。スターリンが狂った猜疑心で特定の民族へ苛酷な強制移住を命じたのは、チェチェン人と同じパターンです(7-3節参照)。
その後1954年、フルシチョフ書記長(当時)は、クリミアをロシアからウクライナへ移管しました。フルシチョフは、1938年にウクライナ共産党第一書記に就任してキャリアを積んだことから、クリミアをウクライナへ「プレゼント」して恩を売ることでウクライナを権力基盤にしようとしたという説があります。
1956年、クリミア・タタール人はソ連にとっての敵性民族の指定から解除され、1967年、クリミア・タタール人の強制移住の決定はソ連最高ソヴィエト幹部会令で撤回されました。しかし、クリミア・タタール人がクリミアへ戻ることをいくら望んでも、帰還することは遅々として進まず、1989年時点で、クリミア・タタール人の人口割合は2%未満までしか回復しませんでした。代わりにロシア人とウクライナ人が入植し、「ロシア人による反クリミア・タタール人運動や暴行事件、運動家の逮捕などが行われた」のです。
1990年11月、ロシア共和国のエリツィン最高会議議長率いる議員団がウクライナの首都キーウを訪問し、ロシアとウライナの主権宣言や現在の国境を維持する旨を相互に確認しました。
そして、1991年8月24日に、ウクライナ最高会議は、独立宣言を発表し、クリミアはウクライナ領のまま残りました。
1992年5月、クリミア共和国の議会は、「クリミア共和国の国家自立宣言」と「クリミア共和国憲法」を採択しましたが、この憲法の第3条3項では「クリミア共和国はウクライナの国家に加わり、条約と合意をもとにして、その関係を定める」としました。したがって、クリミアはロシアへの帰属変更を掲げたわけではなく、「ウクライナの国家に加わり」、自治の強化を目指そうとしたことがわかります。
次の事実も重要です。

引用元:『法を通してみたロシア国家』渋谷 謙二郎著  (ウェッジ)、引用文:222ページ

引用文:「国家間条約としては、プーチン一期目の2003年1月にロシア・ウクライナ国境条約が締結され、ロシア連邦議会でも批准され、両国間の国境問題は解決済みとなっている。」     

1954年にフルシチョフがクリミアをウクライナへ移管したのは当時のソ連憲法に違反していた、という説をロシアはクリミア併合で主張しますが、旧ソ連ではソ連共産党の決定が憲法よりも優先され、憲法はないがしろにされていたのです。
1990年にゴルバチョフがアメリカを訪問してジョージ・ブッシュ大統領と会談した際、次のようなやりとりをした、とゴルバチョフ自身が語っています。

引用元:『ミハイル・ゴルバチョフ』ミハイル・ゴルバチョフ著  副島 英樹訳  (朝日新聞出版)、引用文:178ページ

※管理人注:ソ連において共産党独裁はレーニン以来、絶対的なドグマでしたが、1977年のブレジネフ憲法で第六条としてようやく明文化されました。

プーチンも、旧ソ連では法律よりも共産党が最優先されたことを自伝のなかで認めています。

引用文:『プーチン、自らを語る』ナタリヤ・ゲヴォル・クヤン、ナタリア・チマコワ、アンドレイ・コレスニコフ著  高橋 則明訳 (扶桑社)、引用文:225ページ

引用文:「ソ連時代のイデロギーが今日までも我々の意識を支配している。かつて私たちがどのように考えていたか、思い出してほしい。「裁判所だって。それがどうした。たいしたことないさ。すべての決定を下すのは、この地区の共産党なのだ。重要なのはそこだ。裁判官なんて、言われたことをやっているだけだろう。」」          

                 

13-3 ユーロ・マイダン革命による混乱

プーチンがウクライナからクリミアを奪い取ってロシア領とする計画を実行しようとした時期の、ウクライナの政情について説明します。
ソ連崩壊後、貧しい農業国であるウクライナは、ロシアとEUの双方から利益を得るために、柔軟なバランス外交をおこなってきました。ウクライナという国は、ウクライナ東部に親ロシアでロシア語話者が多く、西部には親EUでウクライナ語話者が多いという特徴をもっています。

※管理人注:ロシアからやってきたlittle green menの画像。引用元:『JIJI.COM』というWebサイト 

                                                  

プーチンは、ロシアの近隣国がNATOへ加盟し続けると、NATOがいずれロシアへ侵攻することになるから認めるわけにはいかない、とは心の底では考えていません。なぜなら、核兵器を世界一多くもつロシアへNATOが攻め込むことはありえないからです。
ロシアは、自由と民主主義がなく、国全体に汚職が蔓延し、人権が蹂躙され、独裁者とその手下たちが国の富をかすめ取る体制のままです。そのロシアの近隣に、自由と民主主義が広まり、人権が守られ、産業が発展する国々をロシア国民がもしも見たら、ロシア国民はその影響を受けて、人権擁護や汚職撲滅を真剣に訴えはじめ、その解決の為に反プーチン運動をしようという人々が国中にあふれかえることになります。プーチンは、この事態をこそ恐れ、そのために、ウクライナのNATO加盟はけしからんという自分本位な詭弁を弄していると考えられます。つまり、プーチンの主張は、己の生命と財産を守るためであり、ロシアの国益を守ろうとすることとは全く違うどころか、ロシア国民の利益を大きく減らし続けているのでロシアの国益をそこなっていると考えられます。

2020年5月4日の報告では、ロシアの1日当たりの新規感染者数がヨーロッパで最多となりました。
引用文:「ロシア政府は3日、同国で過去24時間に確認された新型コロナウイルス感染者はこれまでで最多の1万633人で、(中略)今や1日当たりの新規感染者数が欧州で最も多い国となっている。」

引用文:「新型コロナウイルス感染者数が世界で2番目の多さとなったロシアでは、プーチン大統領の報道官(管理人注:ペスコフ)も感染した。」
ロシア政府は、ワクチン開発と接種開始を政治的に急がせますが、専門家からは批判され、ロシア国民からは接種辞退が相次ぎました。

引用元:「CNN」のWebサイト

引用文:「ロシアは今年8月、数十人の臨床試験を経て、大々的にスプートニクVを承認した。しかし安全性と効果の検証を目的としたフェーズ3の大規模臨床試験前に承認が発表されたことに対し、専門家から強い批判が巻き起こった。メーカーによると、スプートニクVは臨床試験で90%以上の効果を実証したとされる。しかし米ファイザーとビオンテックが共同開発したワクチンなど、競合他社のワクチンに追いつくために発表を急いだ可能性があるとの批判も広がった。プーチン大統領が今月2日にワクチンの大規模接種を開始するよう政府に指示したのは、英国がファイザーとビオンテックのワクチンを承認した2時間後だった。」
「CNNが取材した医師や看護師はほとんどが、ワクチン開発や承認のプロセスに懸念を示し、詳しいデータが明らかになるまで接種は受けないと話している。独立系の調査機関がロシア国民を対象に10月下旬に実施した世論調査では、ワクチンが無料で任意になる場合、接種は望まないという回答が59%を占め、8月の調査より4ポイント増加した。与党の統一ロシア党が10月に実施した世論調査でも、73%がワクチン接種を受ける予定はないと回答した。」

ロシアにおける新型コロナウイルス感染症の状況」によると、ロシア産ワクチン以外の接種が禁じられたので、外国で摂取する人々があらわれました。
「接種開始から1年が経過した21年12月時点で接種を完了した人は全人口の45%と、接種完了のスピードは遅い(同時期の日本の接種完了率は79%)。ロシア国内では国産ワクチンのみが国家登録されており、非国産ワクチンを接種できないことから、ファイザーやモデルナなど非国産ワクチンの接種を目的に近隣欧州諸国に渡航する国民が多数いるとの報道もある。」

※管理人注:引用文中の太字は管理人によるものです。

ワクチン接種の辞退がつづく中、ロシアでは何種類ものワクチンを「開発」した挙げ句に、そのうちのいくつかを生産中止にするお粗末さでした。

引用元:「Jetro」のWebサイト

引用文:「ロシアで製造される新型コロナワクチンのうち、ペプチドワクチンのエピワクコロナ、不活化ワクチンのコビワクが生産中止になったことが分かった。5月20日にモスクワで開催された医療・保健関係会議で、連邦消費者権利保護・福利監督局(ロスポトレブナドゾル)付属中央疫学研究所のアレクサンドル・ゴレロフ研究業務担当副所長が明らかにした(インターファクス通信5月20日)。」

※管理人注:ロシア産のCOVID-19ワクチンは、次の通りです。① スプートニクV(登録名:ガム・コヴィド・ヴァク)(ガマレヤ研究所)、② スプートニクライト(1回のみの接種:ガマレヤ研究所)、③ スプートニクM(登録名:ガム・コヴィド・ヴァク・M)(12歳~17歳の未成年用:ガマレヤ研究所)、④ エピヴァクコロナ(チュマコフ研究所)、⑤ オーロラCoV(登録名:エピヴァクコロナN:ガマレヤ研究所)、⑥ コヴィヴァク(チュマコフ研究所)  (引用元:「ロシアにおける新型コロナウイルス感染症の状況」) 

※管理人注:プーチンは2024年6月20日、訪問先のベトナムで、ロシアの核ドクトリンの変更を検討していることを明らかにした後、同年9月25日、「ロシアが通常兵器による攻撃を受けた場合、核兵器を使用する可能性があると西側諸国に対し警告した。また、核保有国の支援を受けたロシアへの攻撃を共同攻撃と見なすと述べた。」 引用元:「Reuters
※引用文「ロシアのプーチン大統領は(管理人補記:2024年11月)19日、核兵器使用に関するドクトリン(核抑止力の国家政策指針)の改定を承認した。核保有国の支援を受けたロシアへの通常兵器攻撃に対し、核兵器の使用を検討する可能性があると警告した。」引用元:「Reuters
※参考引用文:「ロシアが侵攻を続けるウクライナで、放射性物質をまき散らすことを目的とした「汚い爆弾」が使用される懸念が広がっている。米欧はウクライナが使おうとしていると主張するロシアが自作自演で爆発させ、攻撃されたと偽る「偽旗作戦」に身構えている。」 引用元:『日本経済新聞』の2022年10月24日付のWebサイト記事。この記事は、ロシアがウクライナ国内の原子力発電所を爆発させる偽旗作戦を実行する可能性について言及しています。2022年10月当時に世界中が懸念した「汚い爆弾」の噂は、核を悪用する偽旗作戦には、いろいろな戦術パターンがありうることを考えさせてくれます。
※管理人注:ロシア国民の世論調査で極めて憂慮すべき結果が出ています。引用文「ロシアの独立系の世論調査機関「レバダセンター」の調査によりますと、ロシア人の39%がウクライナとの戦争中に核兵器を使用することは正当化されると回答しました。(中略)一方、「核兵器の使用は正当化できない」と考える人の割合は減少傾向にあります。23年4月には56%が正当化できないと回答していましたが、11月には半数以下となり45%となりました。」 引用元:『Yahoo!!Japanニュース』の2024年11月29日配信のWebサイト 

※引用元:左の画像は「オンライントラベルマガジン 旅コム」、右の画像は「NHK」のWebサイト。

※管理人注:「キエフ」はウクライナの首都のロシア語読みです。ウクライナ語読みでは「キーウ」です。

このアネクドートのポイントは、2つあります。
サイコパスであるプーチンは、ウクライナ戦争の「大義」として、ネオナチからロシア人の同胞を救うのだと公言しながらも、核兵器を使ってウクライナにいるロシア人の同胞を殺すことに何のためらいもありません。このアネクドートは、プーチンがロシア人の同胞を救う気持ちを開戦当初から微塵も持ちあわせていないことを表現しています。
一方、プーチンとは真逆に、ウクライナにいるロシア人の同胞を思いやる愚直な将軍は、プーチンに反対することでプーチンに殺されようとしています。しかし彼は、抵抗や逃走をしようとは全くしません。このアネクドートは、プーチンの決定に従順に従って戦場へ赴き、ロシア兵士の命をないがしろにするロシア軍の戦い方を強いられて、つぎつぎと無残に死んでいく何万人ものロシア兵士たちを連想させますが、ロシア軍の指揮官にも同様の犠牲者が存在することも表現しています。

※管理人注:当サイトの最終的な増補・改訂日は、2024年12月23日です。

PAGE TOP